第7話 騎士団の訓練場は、思っていたよりずっと勉強になりますわ
騎士団の訓練場を見学できる日、私は朝から非常に機嫌が良かった。
なぜなら今日は、ただ鍛える日ではない。
学ぶ日だからである。
しかも、本物から。
前世でも、自分より上の選手や、別競技でも明らかに完成度の高い身体操作をする人間を見るのは好きだった。
上手い人間を見ると、自分の中の感覚が整理される。
何が違うのか。
何が足りないのか。
何を真似してはいけないのか。
見るだけでも、学べることは多い。
だからこそ、私は朝食の席でも浮き足立たぬよう大変な努力を払っていた。
「ルゥ」
母が優雅にパンを切り分けながら言う。
「あなた、少しだけ落ち着きなさいな」
「落ち着いておりますわ」
「目が輝きすぎていて説得力がないぞ」
向かいに座る兄が言った。
失礼である。
「期待しているだけですもの」
「それを浮かれていると言うんだ」
「違いますわ。これは観察意欲ですの」
父が疲れた顔で珈琲を飲んでいた。
まだ朝だというのに、すでに少し消耗しているように見える。
最近の私は、父にとって頭痛の種なのだろう。
だが、それもいずれ理解へ変わるはずだ。
継続と成果は、認識を変える。
「言っておくが、今日はあくまで見学だ」
父が念を押した。
「訓練に口を挟むな。勝手に前へ出るな。人の動きを見てすぐ真似しようとするな。質問も最小限だ」
「承知しておりますわ」
「本当か?」
「本当ですわ」
質問も最小限、という条件だけは少し難しいが、今日はまず見ることが優先である。
焦る必要はない。
見て、持ち帰って、あとで考えればいい。
それに、私は今世でまだ五歳だ。
幼い体で見たものをそのまま再現しようとしても、崩れるだけである。
ならばこそ、今日は本当に観察の日と割り切った方がよい。
朝食を終え、支度を整えた私は、父と兄に伴われて屋敷の中庭を抜けた。
屋敷に付属する騎士団の訓練場は、宮廷直属の大規模なものではない。
あくまで公爵家が抱える護衛や実務に携わる者たちの訓練場だ。
だが、父の立場を考えれば、集まる人材の質は決して低くないはずである。
そして実際、訓練場の門をくぐった瞬間、私は小さく息を呑んだ。
広い。
砂の敷かれた地面。
木剣や槍の練習用区画。
走り込みのための空き。
道具置き場。
端には水桶と簡易な休憩所。
そして何より、そこにいる人間たちの空気が違う。
動き出す前から、立ち方が違う。
休んでいる時でも、完全には気を抜いていない。
視線の置き方、肩の位置、足幅、誰かが動いた時の反応。
全部が屋敷の使用人たちとは違っていた。
強い集団の空気だ。
「ルクレツィア」
父が声を低くする。
「静かに見るんだぞ」
「はい」
私は小さく頷いた。
そんな私たちに気づき、一人の男がこちらへ歩いてきた。
年の頃は四十前後。
大柄ではないが、引き締まった身体つきで、目が鋭い。
無駄なものを削いだ印象の男だ。
「閣下」
「団長、邪魔をする」
団長。
なるほど。
この訓練場を預かる実質的責任者だろう。
男――団長は私へ一瞬だけ視線を向け、兄、そして再び父へ目を戻した。
「本日はご令嬢の見学と伺っております」
「そうだ。見て終わりだ。余計なことはさせない」
父が先に釘を刺した。
大変失礼だが、理解できる。
私も余計なことをしないつもりではいる。
少なくとも今日は。
団長は私へ向かって軽く一礼した。
「初めまして、ルクレツィア様。私はエーヴァルトと申します」
「初めまして、エーヴァルト。お邪魔いたしますわ」
私が挨拶を返すと、団長の目がわずかに揺れた。
幼子の見学にしては落ち着きすぎている、くらいには思われただろう。
それでいい。
別に子供らしくきゃあきゃあ騒ぎに来たわけではない。
「では、あちらからご覧ください」
案内されたのは、訓練場の端にある日陰だった。
全体を見渡せるが、訓練の邪魔にはならない。
非常によい位置である。
私はそこで立ち止まり、視線を巡らせた。
まず、走り込みをしている者たち。
呼吸の使い方は人それぞれだが、上体が揺れすぎていない者は強そうだ。
次に木剣を持って打ち込みを繰り返す組。
打つ瞬間より、その前後を見た方が差が分かる。
構えに入るまでの移り方。
打った後の残心。
雑な者は終わりが崩れる。
やはりそうだ。
前世で学んだことは通じる。
競技が違っても、崩れ方には共通点がある。
私は夢中になって見ていた。
「……もう顔つきが違うな」
兄が横で呟く。
「何かしら」
「獲物を見つけた猫みたいだ」
「失礼ですわね。わたくしは勉強しているだけですの」
「その勉強熱心さが怖いんだよ」
心外だが、今はそれどころではない。
視線を戻す。
今度は二人一組での打ち合いだ。
もちろん本気の斬り合いではなく、型と反応を見るためのものだろう。
だが興味深い。
前へ出る者。
受ける者。
先に動く者。
待って捌く者。
それぞれに癖がある。
私はとくに、足に注目した。
腕は目立つ。
上体も目立つ。
だが本当に差が出るのはたいてい足だ。
前へ出る瞬間の押し。
止まる時の沈み。
向きを変える時の軸。
打たれた後の立て直し。
ああ、面白い。
私がそうして見入っていると、ふいに団長エーヴァルトが近くまで来た。
「何か気になることがおありですか、ルクレツィア様」
父がすぐにこちらを見た。
質問は最小限。
そう言われている。
だが、これは向こうから声をかけてきたのだ。
ならば最低限は許されるだろう。
「ございますわ」
父の眉がぴくりと動いた。
だが止めはしない。
「どのようなことでしょう」
「打つ前より、打った後の方が人によって差が大きく見えますの」
団長の目が、少しだけ変わった。
「ほう」
「前へ出る時や振る時より、そのあとに崩れる方の方が分かりやすい気がいたしますわ。なぜかしら」
兄が横で、なんとも言えない顔になっていた。
たぶん「本当に見てるんだなこいつ」と思っている。
団長は私を見たあと、訓練中の者たちへ視線を戻した。
「良いところをご覧になっておいでです」
おや。
これは少し嬉しい。
「打つ瞬間だけなら、勢いで形に見せられます。ですが、終わりはごまかしが利きにくい。体勢、重心、気の残し方、その者の癖が出ます」
やはり。
私は小さく頷いた。
「分かりますわ」
「本当に?」
兄が小声で言った。
無視した。
「では、あの二人ですと、どちらが良いとお思いですか」
団長が示したのは、中央で打ち合っている若い騎士二人だった。
一人は勢いがある。
もう一人は地味だが安定している。
私は少し見た。
数合。
さらに数合。
「右の方ですわね」
「理由は?」
「大きく見せるのは左の方ですけれど、終わった後に戻るのが右の方が早いですもの。左の方は打つたびに少し上体が流れますわ」
団長は一瞬黙り、次いで低く笑った。
「閣下」
「何だ」
「ご令嬢は本当に見ておられますな」
父が頭を抱えかけて、途中でやめた。
さすがに団長の前だからだろう。
「だから連れてきたくなかったんだ……」
そんなことを言わないでいただきたい。
私は真面目に学んでいるだけである。
兄は横で面白そうにしている。
感じが悪い。
団長は今度、少しだけ興味の色を強めて私を見た。
「ルクレツィア様は、普段から剣を?」
「基礎だけですわ。立ち方、歩法、棒の扱いを少し」
「なるほど」
その“なるほど”は、完全に納得というより、観察対象を再定義した声だった。
つまり、ただの幼女見学者ではなくなったのだろう。
よろしい。
こちらとしてもその方が話が早い。
その後も私は静かに訓練を見た。
集団での動き。
掛け声の意味。
休憩の取り方。
上に立つ者が下へ注意を飛ばす時の視線。
失敗した者の直し方。
何度も同じことを言われる者の崩れ方。
見ていて思った。
強い集団は、個人だけで成立していない。
空気と文化で成立している。
きちんと挨拶する。
返事が速い。
道具を雑に扱わない。
注意されたらまず受ける。
上に立つ者が、必要以上に感情で怒鳴らない。
これは大きい。
競技でも組織でも、伸びる集団には共通点がある。
無駄に荒れていない。
緊張はあるが、消耗しきっていない。
基礎を基礎として重んじる空気がある。
私はそのことに少し感心した。
父の立場もあって、もっと堅苦しいだけの場かと思っていたが、実際にはかなり機能的だ。
感情ではなく、技術と秩序で回っている感じがある。
良い訓練場である。
「ルクレツィア様」
また団長が声をかけてきた。
「何か、ほかにも気づかれましたか」
私は少し考えた。
ここで喋りすぎるのは危険だ。
だが、せっかく聞かれた以上、黙るのも惜しい。
「……皆さま、礼が綺麗ですわね」
団長が少しだけ意外そうな顔をした。
「礼、ですか」
「ええ。強い方は打つ時ばかり目立ちますけれど、始まりと終わりの方が、むしろ揃っている気がいたします」
団長は、今度は笑わなかった。
静かに私を見て、それから訓練場の中央へ視線を戻した。
「そういうところを見る方は珍しい」
「大事ではなくて?」
「大事です」
即答だった。
「強いだけでは集団は維持できません。始まりと終わりを揃えられる者の方が、結局は長く伸びる」
それは非常によく分かる。
試合でも仕事でも、雑に始めて雑に終える者は安定しない。
強い時だけ強い。
それでは困るのだ。
私は小さく頷いた。
「勉強になりますわ」
「こちらも驚いております」
団長のその言葉に、父が深く息を吐いた。
「だから言っただろう。余計な刺激になると」
「いえ閣下、これは刺激というより……」
団長は一度言葉を切り、少しだけ笑った。
「早熟ですな」
兄が吹き出しそうになり、私は父の顔を見た。
父は本当に複雑そうだった。
嬉しいのか困るのか、その両方かもしれない。
だが私は満足していた。
今日は来てよかった。
見てよかった。
思った以上に得るものが多い。
帰ったら整理しよう。
打ちの前後。
足の安定。
礼の意味。
集団の空気。
団長の言葉。
全部使える。
それからしばらくして見学は終わりとなり、私たちは訓練場を後にした。
帰り道、父は少し疲れた顔で歩いていたが、兄はむしろ上機嫌だった。
「どうだった、ルクレツィア」
「大変有意義でしたわ」
「それは見れば分かる。何を持ち帰った?」
良い質問である。
兄も少しずつ、聞き方が良くなってきた。
「終わりの形ですわね」
「終わり?」
「ええ。始まりも大事ですけれど、終わりの方が隠せないものが出ますわ。それと、礼の意味。あと、強い集団は空気から違うということですの」
兄は数秒黙ってから笑った。
「本当に、お前は五歳児の報告じゃないな」
「中身の問題ですわ」
「また言ったな」
しまった。
だが今さらである。
私は小さく咳払いをして前を向いた。
訓練場の砂の感触。
木剣の音。
団長の目。
騎士たちの足。
揃った礼。
全部がまだ頭の中に残っている。
熱が冷めないうちに整理しよう。
見たものを言葉にして、今の鍛錬へ落とし込もう。
礼儀作法にも接続できる。
歩法にも活かせる。
オズヴァルトへの質問も増えるだろう。
ああ、忙しい。
だが、それが嬉しかった。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、初めて本物の訓練場を見て、強さとは動きだけでなく、終わり方と礼と空気にまで宿るのだと知る。そしてその学びを、例によって全部、自分の断罪対策へ繋げるつもりでいた。




