第47話 部分鎧を着て走るのですか、それはまあ、嫌ですけれど必要ですわね
行軍訓練の数日後、私は騎士学校という場所の教育方針をさらに深く理解することになった。
簡単に言えば。
嫌なことほど、たぶん必要だからやらせるのですわね。
その日の朝、訓練場へ集合した時点で、空気が少し違っていた。
木剣だけではない。
いつもの軽装でもない。
整然と並べられているのは、部分鎧だった。
胸当て。
肩。
前腕。
脛。
最低限だが、明らかに“動きを邪魔しない範囲で、しかし確実に重くなる”構成である。
しかもその横には、帯剣用の訓練剣まで揃っていた。
私は一目見て理解した。
……今日は嫌な日ですわね。
だが同時に、必要性も分かる。
軽装で動けるのは当然だ。
木剣だけで綺麗に振れるのも当然だ。
問題は、重さと邪魔が増えた時に、どこまで自分の動きと判断を保てるかである。
理屈としては大変に正しい。
感情としてはあまり嬉しくない。
レオンが横で言った。
「嫌な予感が当たったな」
「ええ」
「お前、妙に落ち着いてるな」
「落ち着いてはおりませんわ」
私は鎧の方を見ながら答えた。
「ただ、必要性は理解できますもの」
「理解できると納得できるは違うだろ」
「その通りですわね」
イリーナは露骨に顔をしかめていた。
「走らせる気でしょ、これ」
「でしょうね」
「最悪」
カイルは何も言わない。
だが、視線はもう鎧と剣の重さを測っている。
悪くない。
教官が前へ出る。
「本日は部分鎧着用、帯剣状態での駆け足訓練だ」
はい。
やはりそうでしたわね。
「軽い身体で動けるのは当然だ。問題は、重さが乗り、揺れが増え、息が削られた状態で、どこまで崩れないかだ」
極めてよろしい。
嫌ですが、極めてよろしい。
「着けろ。自分で確認しろ。他人任せにするな」
そこからは装着確認になった。
私は一つずつ、位置と締め具合を確かめた。
胸当てが呼吸を殺さないか。
肩が腕を引っ張りすぎないか。
脛当てが脚の前運びを邪魔しないか。
帯剣位置が骨盤の動きとぶつからないか。
良い。
嫌だが、面白い。
軽装とは違う。
歩いただけで分かる。
重さが増えた、というより、“揺れの種類”が増えた。
呼吸に鎧が乗る。
足を出せば脛当てが返る。
腰の剣が半拍遅れてついてくる。
つまり、自分一人の身体ではなくなる。
これはかなり大きい。
「ヴァルツェン」
教官が言う。
「はい」
「何を見ている」
「揺れですわ」
教官の目が少しだけ細くなる。
「続けろ」
「重さそのものより、揺れの遅れが気になりますの。胸、脛、剣、全部が半拍ずつ違いますわ」
数秒の沈黙。
そして教官が短く言った。
「悪くない」
よろしい。
「そこが分かるなら、走っても少しはましだ」
つまり、かなり嫌なことになるのは確定である。
まずは歩き。
それから早足。
そこまではまだいい。
問題は駆け足へ移った瞬間だった。
重い。
いや、正確には“散る”。
身体の中心が一つではなくなる感覚。
鎧と剣がそれぞれに遅れ、揺れ、呼吸を乱しに来る。
脚だけならまだ持つ。
だが、呼吸と姿勢と腕の置き場が少しずつ雑になる。
レオンがすぐに悪態をついた。
「これ、走る前提で出来てないだろ!」
「出来ております」
教官が即答する。
そこに情け容赦はない。
「出来ていないのはお前たちだ」
まことにその通りで、言い返しにくい。
私は最初の数十歩で理解した。
これは“体力”の訓練でもあるが、それ以上に“雑にならない走り方”の訓練だ。
重いから前へ倒れる。
揺れるから肩に力が入る。
息が苦しいから顔が上がる。
そうすると全部が悪くなる。
ならば必要なのは、速く走ることではない。
まず揺れを殺しすぎず、だが暴れさせすぎず、芯だけを保つことだ。
私はそこで、一段だけ歩幅を狭めた。
大きく進まない。
だが崩れにくい幅にする。
呼吸を胸で取らず、背と腹で流す。
剣が跳ねる分、腰を固めすぎない。
きつい。
かなりきつい。
だが、やり方はある。
イリーナが横で吐き捨てる。
「最悪……!」
「ええ」
私も短く答える。
「かなり最悪ですわ」
「なのに何で声が落ち着いてるのよ!」
「荒くすると余計に死にますもの」
それは本音だった。
こういう時、先に心が騒ぐと身体も終わる。
だから私は、せめて声だけは切らさないようにする。
隊列の後ろで、早くも一人リズムを崩しかけた。
鎧の重さに引かれて上体が前へ落ち、剣が脚へ当たり始めている。
見ているだけで分かる。
あれは危ない。
教官の声が飛ぶ。
「腰を死なせるな!」
だが本人はもうそこまで回っていない。
私は前を向いたまま、横のレオンへだけ小さく言った。
「剣が脚へ当たり始めたら危ないですわ」
「分かる」
「ええ。あなたはまだ大丈夫」
「褒めてるのか」
「事実確認ですの」
そのやり取りだけで少しだけ気が戻る。
こういう時、短い言葉は大事だ。
一度止めが入った時、全員かなり酷い顔をしていた。
汗。
荒い呼吸。
鎧を雑に触りたくなる衝動。
だが教官は言う。
「座るな。鎧を脱ぐな。まず整えろ」
よろしい。
容赦がない。
しかし正しい。
「どう崩れた」
誰もすぐには答えない。
きついからだ。
だが教官は待つ。
レオンが先に言った。
「肩に力が入りました」
「そうだ。イリーナ」
「呼吸が上ずった」
「カイル」
「……剣の揺れを嫌って、腰を固めました」
「そうだ。ヴァルツェン」
私は一拍置いて答える。
「最初、重さそのものを処理しようとして失敗しましたわ」
「続けろ」
「ですが、重いのではなく、揺れが増えたと考えた方がましでしたの。そこから少し戻せましたわ」
教官は頷いた。
「その見方はいい。重さに負ける者は多いが、揺れに飲まれる者はもっと多い」
後ろで何人かが小さく顔を上げる。
たぶん、今の説明で腑に落ちたのだろう。
「次はそこを意識しろ。重さそのものを消そうとするな。揺れの中で芯を残せ」
再開。
今度は全員、さっきよりましだった。
良くなったとは言わない。
だが“どこで死ぬか”が少し分かっただけで、崩れ方は減る。
私も、さっきよりは呼吸を切らさずに行けた。
帯剣の跳ね方にも少し慣れる。
脛当ての返りも読める。
もちろん楽ではない。
だが、“嫌なもの”から“対処できる嫌なもの”へ変わる。
それはかなり大きい。
終盤、レオンが本気で死にそうな顔をしていた。
イリーナも珍しく無言だ。
カイルは静かだが、逆に静かすぎて少し危ない。
私はそこで、短く言った。
「レオン、肩」
「分かってる」
「イリーナ、呼吸」
「言われなくても」
「カイル、剣が内へ寄ってますわ」
「……ああ」
教官の声がすぐ飛ぶ。
「ヴァルツェン、喋りすぎるな。だが今の三つは正しい」
よろしい。
完全に黙れでもない。
そこが良い。
最後の一本が終わった時、全員かなり酷い有様だった。
だが、最初よりは明らかにましだった。
鎧を外す前に、教官が全体へ言う。
「覚えておけ。軽い身体で走れても意味は薄い。装備が乗り、揺れが増え、息が苦しい時に形を保て」
広場は静かだった。
誰も余計なことを言わない。
言う余力がないとも言う。
「今日崩れた者は、それでいい。問題は、崩れ方を覚えたかだ」
かなり良い言葉だと思った。
解散後、レオンがその場にしゃがみ込みかけて、また補助教官に睨まれていた。
学ばない人である。
「死ぬ……」
「死にませんわ」
「お前、この前も同じこと言ってたぞ」
「今回も同じですもの」
イリーナが汗を拭いながら言う。
「……でも、揺れって言い方は分かった」
私はそちらを見る。
「本当ですの?」
「悔しいけど。重い重いって思ってた時より、少しましだった」
カイルも小さく頷いた。
「俺も」
悪くない。
かなり悪くない。
レオンが息を整えながら言う。
「お前、こういう嫌な訓練の時だけ役に立つな」
「いつも役に立っておりますわ」
「そこは少し考えろ」
その夜、記録帳を開いた私は、最初にこう書いた。
部分鎧、帯剣、駆け足訓練。
嫌でしたわね。
かなり嫌でしたわね。
ですが必要でした。
さらに書き足す。
重さより揺れ。
重くなると考えるより、自分の外側に遅れが増えると考えた方が対処しやすい。
肩を固めすぎると死ぬ。
腰を固めすぎても死ぬ。
呼吸を胸だけで取るともっと死ぬ。
そして最後に、一行足した。
どうやら騎士学校では、“装備が増えた状態でも雑にならないこと”が断罪対策としてもかなり重要らしいですわ。
……ええ。
これはかなり重要ですわね。
私は羽根ペンを置き、まだ少し重い肩を回した。
よろしい。
嫌な訓練だった。
だが、良い訓練だった。
騎士学校は本当に、嫌なことほどきちんと意味がある。
そこはかなり信頼できる。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、部分鎧を着け、帯剣したままの駆け足訓練という嫌だが必要な課題を通して、“重さ”ではなく“揺れの増加”として装備を扱う感覚を掴み始め、また一つ、実戦に近い身体の使い方を覚えていくのだった。




