第46話 行軍で脱落が出るのは、まあ、そうでしょうねと思いましたわ
騎士学校へ入学して三週目、ついにその日が来た。
行軍である。
私は朝の点呼でその語が出た瞬間、内心でかなり納得した。
……ええ。
必要ですわよね。
剣がどうこう以前に、歩けなければ話にならない。
移動できること。
荷を持てること。
疲れてから崩れないこと。
その中で判断を失いすぎないこと。
どれも騎士には必要だ。
むしろ、かなり根幹に近い。
ただし、必要であることと楽であることは別だった。
朝靄の残る広場に整列した新入生たちは、皆それなりに顔が硬い。
普段の訓練とは空気が違う。
剣なら、短い時間で切り替えられる。
行軍は違う。
始まったら、長い。
教官が前へ出た。
「本日の訓練は行軍だ」
短い。
だが十分である。
「騎士は立てればよいわけではない。動け。運べ。崩れるな。遅れるな。最後まで頭を死なせるな」
非常によろしい。
まったくその通りだった。
「途中で脱落が出てもおかしくはない。だが、脱落を軽く見るな。自分は違うと思う者から崩れる」
その言葉で、列の空気が少しだけ重くなる。
私は静かに呼吸を整えた。
行軍自体は嫌いではない。
前世でも、競技の基礎体力はかなり積んでいた。
長く動くことの嫌さも、それが必要なことも知っている。
だが、今の身体は前世のそれではない。
十五歳のルクレツィアであり、鍛えてきたとはいえ、行軍の専門家ではない。
舐める理由はなかった。
装備の確認が入る。
剣。
水。
簡易携行食。
最低限の負荷。
訓練用としては妥当だが、新入生には十分重い。
レオンが小声で言った。
「嫌な予感しかしないな」
「健全ですわね」
私が答えると、横のイリーナが嫌そうな顔をした。
「何でこういう時に落ち着いてるのよ」
「長いだけなら、まだ理不尽ではありませんもの」
「その基準、ほんとに変」
その通りかもしれない。
行軍は校門を出てすぐ始まった。
最初のうちは、皆まだ口が利けた。
歩幅も大きい。
視線も前を向く。
余裕がある。
だが、四十分も経つ頃には変わり始めた。
喋る者が減る。
肩が上がる。
荷の位置を直す回数が増える。
呼吸が浅くなる。
無意識に列の間が乱れる。
見える。
かなり見える。
そして、こういう時の人の崩れ方は、剣の時より正直だ。
強がりが消える。
誤魔化しが利かない。
積んだものと、積んでいないものがそのまま出る。
私は一定の歩幅を保ち、呼吸を殺さないようにした。
速く行かない。
遅れない。
肩を先に喋らせない。
荷の重さを腕で持ちすぎない。
前世でもそうだった。
長い運動で先に死ぬのは、だいたい上半身から無駄に頑張る者だ。
脚と呼吸と体幹で流す方が持つ。
だが、それでもきついものはきつい。
一時間を過ぎた頃、最初の脱落が出た。
列の後方から、小さなざわめきが走る。
足が止まり、補助教官が二人動いた。
「止まるな! 前は前へ進め!」
主教官の声が飛ぶ。
冷たい声ではない。
だが、甘くもない。
私は前を向いたまま、内心で思った。
ええ。
そうなりますわよね。
行軍は、だいたい辛い。
辛いから脱落も出る。
それ自体は不思議ではない。
問題は、そこから列全体の気持ちがどう崩れるかだ。
後ろで人が脱落した。
それを見る。
自分も脚が重い。
息もきつい。
そこで“次は自分かもしれない”が頭へ入ると、一気に崩れる。
つまり、ここからが本番だった。
イリーナが低く言う。
「最悪」
「ええ」
「“ええ”じゃないのよ」
「ですが事実ですわ」
レオンはもう返す余裕が薄いらしく、黙って歩いていた。
カイルも無言だ。
だが、足はまだ生きている。
そこが良い。
少し進んだところで、教官が短い休止を入れた。
完全な休憩ではない。
水を飲み、隊形を整え、また動くための短い止まりだ。
「座るな」
教官が言う。
「今座ると、次が死ぬ」
それも本当にそうだ。
新入生の段階で深く落とすと、再起動に時間がかかる。
私は立ったまま水を飲んだ。
首筋の熱を感じる。
足も重い。
だが、まだ崩れてはいない。
レオンが息を吐く。
「きついな」
「ええ」
「お前、本当に同じ訓練受けてるか?」
「受けておりますわ」
「平然としすぎだろ」
「平然とはしておりません」
私は正直に答えた。
「きついですわ。かなり」
イリーナが横でこちらを見る。
「それ、本当?」
「本当ですの」
「全然そう見えない」
「見せていないだけですわ」
そこで、なぜかレオンが少しだけ笑った。
「何だそれ」
「辛いのは事実ですけれど、辛い顔を先に出すと余計に崩れますもの」
それはかなり本音だった。
辛い。
だが、そこで“もうきつい”を先に全身へ出すと、本当に終わる。
だから私は、呼吸と姿勢だけは切らさないようにしている。
カイルが初めて口を開いた。
「……それは分かる」
良い。
この人は必要な時にだけ喋る。
再開する。
ここからが本当に長かった。
脚が重い。
靴の中で感覚が少しずつ鈍くなる。
肩も、首も、腰も、じわじわ来る。
そして、また一人脱落した。
今度は前の方だった。
ぐらつき、支えられ、列から外される。
ざわつく。
主教官は止めない。
止めないが、見ている。
全体を見ている。
崩れそうな気配が増えていないか、ちゃんと拾っている。
私はそこで理解した。
この行軍は体力だけを見ているのではない。
きつい中で、どう気持ちと隊列を保つかも見ている。
ならば、ただ耐えればよいわけではない。
レオンの歩幅が少しだけ乱れた。
イリーナも苛立ちが呼吸へ出始めている。
カイルは持つが、少し静かすぎる。
たぶん限界が近い時ほど黙る型だ。
私はここで、一つだけ声を出した。
「レオン、歩幅を小さく」
「……ああ」
「イリーナ、肩が上がっておりますわ」
「分かってる」
「カイル、水は次の止まりで必ず」
「……分かった」
それだけだ。
長くは言わない。
余計なことは要らない。
ただ、その一言で少しだけ流れが戻る。
自分だけがきついのではないと分かるだけで、人は少し持つ。
そこへ、後ろから教官の声が飛んだ。
「ヴァルツェン」
「はい」
「喋りすぎるな。だが、今の三つは悪くない」
私は少しだけ頷いた。
よろしい。
完全に黙るのでもなく、喋りすぎるのでもなく。
必要なだけ置く。
その感覚は、お茶会とも舞踏とも、やはり似ていた。
終盤、列はかなり削られていた。
脱落した者は十人に届かない。
だが、少なくもない。
私はそれを見て、率直に思った。
大体、辛くて脱落する者が出るのは当然ですわね。
そこへ変な理想を持つ必要はない。
行軍は辛い。
辛ければ崩れる。
崩れる者が出る。
問題は、そこから何を学ぶかだ。
最後の戻り道、もう誰も喋らなかった。
喋る余裕がない。
だが、その静けさは悪くなかった。
ただ耐える静けさだった。
校門が見えた時、列の空気が少しだけ変わる。
人は終わりが見えると、最後に緩みやすい。
だが教官はそこも見逃さない。
「崩すな! 最後まで揃えろ!」
その一声で、皆また少しだけ形を戻した。
よろしい。
かなり良い締め方だ。
終わった時、私は本当に疲れていた。
脚も重い。
喉も乾いている。
肩も静かに痛い。
だが、気分は悪くなかった。
むしろかなり良い。
これは必要な訓練だ。
そして、自分がどうきつくなるかも少し見えた。
解散前、教官が全体へ言った。
「脱落した者を笑うな。立って戻った者を誇りすぎるな。今日は“今のお前たちがどこまで持つか”を見ただけだ」
広場は静かだった。
「次は、今日より持たせろ」
短い。
だが十分だった。
解散後、レオンがその場へ座り込みかけて、補助教官に即座に怒られた。
当然である。
「死ぬ……」
「死にませんわ」
私が言うと、レオンが恨めしそうに見る。
「お前、ほんとに元気だな」
「元気ではありません」
「じゃあ何なんだよ」
「まだ倒れていないだけですわ」
イリーナが水を飲みながら言った。
「……でも、あんたが途中で声かけたの、少し助かった」
「ええ」
「ええ、じゃないわよ」
「感謝は受け取っておきますわ」
「言ってない」
だが、顔はそこまで嫌そうでもなかった。
カイルが最後に小さく言う。
「ルクレツィア」
「何かしら」
「……先に見えるのは、こういう時は便利だな」
私はそちらを見て、少しだけ頷いた。
「ええ。こういう時は」
それで十分だった。
その夜、記録帳を開いた私は、最初にこう書いた。
行軍。
辛い。
かなり辛い。
脱落者が出た。
だが、それ自体は当然。
問題は、そこから列と気持ちをどう崩しすぎないか。
今日はそこを見られていた。
さらに書き足す。
わたくしは脚より先に肩を固めやすい。
レオンは歩幅が乱れる。
イリーナは苛立ちが呼吸へ出る。
カイルは限界が近いほど黙る。
こういうのは覚えておくと便利ですわね。
そして最後に、一行だけ加えた。
どうやら騎士学校では、断罪対策としても持久力と隊列維持はかなり重要らしいですわ。
……ええ。
かなり重要でしたわね。
私は羽根ペンを置き、疲れた脚を静かに伸ばした。
よろしい。
初めての行軍としては、かなり良い。
辛かったが、見えたものも多かった。
だから、悪くない日だ。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、騎士学校での最初の行軍訓練を通して、“きつい中で崩れないこと”が剣と同じくらい重要であると改めて理解し、脱落者が出る現実も含めて、この学校の厳しさを少しずつ身体で知っていくのだった。




