第45話 公爵令嬢なら戦えなくても困らない、は少々楽観的すぎますわね
騎士学校へ入学して二週間が過ぎた頃、私はようやく一つ確信していた。
この学校には、強くなりたい者が多い。
だが、“なぜそこまで強くなる必要があるのか”については、案外ばらばらだ。
名誉。
出世。
家の期待。
騎士団入り。
武功。
矜持。
どれも悪くない。
むしろ立派だと思う。
だが、私のそれとは少し違う。
私は、最後に自分で立てることを重く見ている。
肩書より先に。
家名より先に。
制度より先に。
それは前世から、たぶん骨のところに入っている感覚だった。
交渉は大事だ。
立場も大事だ。
家格も便利だろう。
だが、それらは相手が前提を守る時に強い。
前提が壊れたら。
理不尽が前へ出たら。
悪意が先に動いたら。
最後に物を言うのは、距離と、技術と、身体だ。
だから私は、剣を名誉ではなく、かなり実用寄りに見ている。
そして場合によっては、剣より肉体の方が信用できることも知っている。
……この感覚は、どうやらこの世界では少し珍しいらしい。
その日の午後は、珍しく実技ではなく座学だった。
内容は、騎士の任務と命令系統。
誰が何に従い、どういう時に独断が許されず、どういう状況で判断を急ぐべきか。
規律の話としては極めて重要である。
私は真面目に聞いていた。
こういうものは軽視しない。
制度は大事だ。
命令系統も大事だ。
崩れた時に個人戦になるとしても、崩れないうちは制度の方が強い。
そこはきちんと理解している。
「騎士は勝手に動くな」
教官が言う。
「命令なく動いて功を立てたとしても、それが全体を乱せば意味はない」
もっともだと思う。
「だが、現場では命令が遅れることもある。届かないこともある。その時に必要なのは、規律を知ったうえでの判断だ」
ここも良い。
ただ従えではない。
現場の破れまで前提に入れている。
やはり、この学校はかなり良い。
授業の終わり際、教官が何気なく言った。
「貴族の子弟も平民もいるが、ここでは全員、自分の足で立つことを覚えろ」
その一言に、私は少しだけ頷いた。
そう。
そこなのだ。
肩書があっても、最後は自分の足で立てる方が強い。
それを学校の側も分かっているのなら、とても良い。
だが、休憩に入った時、そこへ少しズレた理解が混ざった。
中庭の石縁に座って水を飲んでいると、別組の男子生徒が二人、こちらを見ながら話していた。
露骨ではない。
だが聞こえる距離だ。
「でも、あの公爵令嬢は別だろ」
「何が」
「別にそこまで戦えなくても困らないじゃないか。家が家だし」
私は水筒を持ったまま止まった。
……なるほど。
そういう見方も、やはり出ますわよね。
レオンが先に反応した。
「お前、それ本人の前で言うのか」
「いや、悪い意味じゃなくてさ」
「だとしても変だろ」
イリーナは露骨に嫌そうな顔をしていた。
「家が上なら戦えなくてもいい、って発想がもう嫌」
だが私は、そこで怒る気にはならなかった。
むしろ少し整理したくなった。
「失礼」
私は立ち上がり、その二人の方へ向いた。
「何だ」
「何かしら」
「今の話ですけれど」
二人が少し身構える。
まあ、そうなるだろう。
「公爵令嬢なら戦えなくても困らない、は少々楽観的すぎますわね」
沈黙。
レオンが横で顔を押さえた。
イリーナは“始まった”という顔をしている。
だが私は真面目だった。
「な、何でだよ」
片方が聞き返す。
悪意は薄い。
単純に不思議なのだろう。
「家があるだろ」
「ええ」
「公爵家なんだから、普通に考えたら困らないじゃないか」
私は少しだけ考え、なるべく分かりやすく言った。
「公爵家の名は便利ですわ」
「便利……」
「ええ。とても」
そこは否定しない。
否定すると、話が雑になる。
「ですが、便利であることと、最後まで守ってくれることは別ですの」
相手の顔が少し曇る。
理解が追いついていない時の顔だ。
「どういう意味だ」
「たとえば、交渉の席なら家名は強いですわね。手続きでも、立場でも、周囲の目でも」
「だろ」
「ですが、相手が理屈を無視したら?」
そこで、少し空気が止まった。
「あるいは、場が崩れたら。命令が遅れたら。護衛が間に合わなかったら。悪意の方が先に動いたら」
私は淡々と続けた。
「その時に最後に頼れるのは、公爵家の名前ではなくて、自分の距離感覚と技術と身体ではなくて?」
レオンが小さく息を吐いた。
イリーナは黙ったまま私を見ている。
男子生徒の一人が、少しだけ顔をしかめる。
「そんな極端な」
「極端ですの?」
「普通、そこまで行かないだろ」
「行かないなら結構ですわ」
私は静かに答えた。
「ですが、行った時に終わるのは困りますもの」
その瞬間、後ろでレオンが吹き出した。
笑ったというより、呆れたのだろう。
「やっぱり根本が違うんだよな」
その言葉は正しいと思う。
私はこの世界の多くの人より、最後に前提が壊れる可能性を重く見ている。
それは臆病だからではない。
むしろ、最悪を前提にした方が普段は落ち着いていられるからだ。
イリーナがそこで言った。
「要するにあんた、家名が信用できないの?」
「いいえ」
私は即答した。
「信用しておりますわ」
「え」
「公爵家の価値はありますもの。ありますけれど、優先順位の話ですの」
そこは大事だった。
私は別に、公爵家が無意味だとは思っていない。
ただ、最終保険としては弱いと見ているだけだ。
「家名は、相手が前提を守る時に強いですわ。ですが、最後の最後で自分を立たせる力としては、剣と身体の方を深く信用しておりますの」
そこで、後ろから別の声がした。
「……それは、騎士としては案外まともな答えだな」
教官だった。
いつから聞いていたのか分からないが、かなり悪いタイミングで現れる人である。
いや、良いタイミングかもしれない。
全員がすぐに姿勢を正した。
私も一礼する。
教官は私を見る。
「ヴァルツェン」
「はい」
「言葉の選び方は相変わらず妙だが、今の考え自体はそう外れていない」
よろしい。
「家格は使え。制度も使え。護衛も使え。命令系統も使え」
「はい」
「だが、それで足りると思うな、という意味なら正しい」
「ええ」
教官は男子生徒二人へ視線を向けた。
「お前たちも勘違いするな。家が上だから戦えなくてもいい、は騎士学校では通らん」
二人は小さく頭を下げた。
そこへ教官はさらに続ける。
「だがヴァルツェン、お前もだ」
「何でしょう」
「全部を“最後は個人戦になる”へ寄せすぎるな。組織が機能する時に、その強さを軽く見るな」
私は一拍だけ置いてから頷いた。
「承知いたしましたわ」
それもまた正しい。
私は個人戦への不信を重く見ているが、だからといって制度の価値を低く見すぎるのは雑だ。
教官はそこで終わらせなかった。
「もう一つ」
「はい」
「お前は剣だけでなく、組まれた後や距離が潰れた後まで考えているな」
私は少しだけ目を瞬かせた。
見ている。
かなり見ている。
「ええ」
「理由は」
「剣だけで全部が綺麗に始まる保証はありませんもの」
教官は数秒黙った。
それから、低く言う。
「……そこまで考えている新入生は多くない」
レオンが横で笑う。
「でしょうね」
「笑うな」
「でも本当じゃないですか」
イリーナが腕を組んだまま言う。
「私も剣の後まではまだそんなに考えてない」
男子生徒の一人が小さく聞いた。
「じゃあ、お前は剣より肉弾戦の方が大事だと思ってるのか」
私は少し考えた。
そして、正確に答える。
「いいえ。剣が届く距離なら剣の方が速いですわ」
「じゃあ」
「ですが、距離が潰れたら別ですの」
私は淡々と続ける。
「掴まれたら。倒れたら。泥の上なら。壁際なら。複数相手なら。そういう時まで考えるなら、剣だけを信用するのは少々危ういですわ」
今度の沈黙は、前より長かった。
教官が最後に言う。
「ヴァルツェン」
「はい」
「お前、本当に思考が少しずれているな」
「よく言われますわ」
「だが、そのずれが役に立つ場面もある」
それはかなり良い評価だった。
「ありがとうございます」
「褒めているとは限らん」
「存じております」
だが、悪くはない。
休憩が終わって皆が散る時、レオンが私の横へ来た。
「なあ」
「何かしら」
「お前、本当に公爵家の価値あんまり分かってないだろ」
私は少し首を傾げた。
「便利なのは分かっておりますわ」
「便利って」
「ですが、最後に殴られた時に守ってくれるのは肩書ではなくて、距離と技術と体幹でしょう?」
レオンが数秒止まり、それから本気で笑った。
「やっぱりお前、変だよ」
「心外ですわね」
イリーナも後ろから言う。
「でも、そういうところは嫌いじゃない」
私はそちらを見た。
「まあ」
「勘違いしないで。面倒なのは変わらないから」
「知っておりますわ」
その夜、私は記録帳を開いた。
公爵令嬢なら戦えなくても困らない、という見方があった。
それは少々楽観的すぎる。
家名は便利だが、最後の保険としては剣と身体の方を深く信用している。
教官は、制度を軽く見るなと仰った。
それも正しい。
剣だけでなく、距離が潰れた後まで考えているのは少し珍しいらしい。
最後に、静かに一行足した。
どうやらこの世界の人々は、公爵家の価値をわたくしより重く見て、肉弾戦の重要性をわたくしより軽く見ているようですわね。
かなり興味深い。
私は羽根ペンを置き、短い髪を軽く払った。
よろしい。
また少し、自分がこの学校でどうズレているのかが見えた。
見えれば、使える。
それで十分だ。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、公爵家のネームバリューをこの世界の人々ほど重くは見ておらず、むしろ最後に身を守る力として剣と肉体の価値を誰よりも深く信じていることを、騎士学校の同期たちへまたしても妙な形で理解させてしまうのだった。




