第40話 王国騎士学校の門を前にしても、わたくしはあまり震えておりませんでしたわ
入学の日の朝、私は思っていたより静かだった。
眠れなかったわけではない。
緊張がないわけでもない。
だが、それがもう外へ溢れる年齢でもなかった。
五歳で熱を出し、木剣を欲しがり、断罪を恐れ、十年かけて積んできた。
十五歳の今になって門の前で震えるなら、それは少し違う気がする。
むしろ今さら震えるべきは、父母の方かもしれない。
実際そうだろう。
騎士服はすでに馴染んでいた。
ショートカットになった髪も、首回りの感覚にもう違和感はない。
実用の剣は腰にある。
その重みもまた、ここ数週間でかなり自然になった。
つまり、外側は整っている。
あとは中身がついていくだけだ。
それは今さら言うまでもない。
私は鏡の前で最後に一度だけ姿勢を整えた。
背筋。
肩。
顎。
視線。
よろしい。
これで行ける。
部屋を出ると、廊下にはすでに家族がいた。
父。
母。
兄。
それぞれがそれぞれに整っている。
だが、いつもと少し違う。
父は朝から少しだけ黙りすぎていた。
母は穏やかだが、笑みの奥に感情が多い。
兄だけが、比較的いつも通りに見せようとしている。
私は一礼した。
「おはようございますわ」
母が最初に言った。
「おはよう、ルゥ」
その声だけで、もうかなり色々入っているのが分かる。
父は私を頭から足先まで見た。
騎士服。
剣。
髪。
そして立ち方。
「……本当に行くのだな」
何度目か分からない確認だった。
だが、今日のそれは少し違う。
もう止めるためではなく、送り出す前の確認だ。
「ええ」
私は静かに答えた。
「行きますわ」
父はそれ以上は言わなかった。
ただ、短く頷いた。
母が少し近づいてきて、私の襟元を直す。
もう整っているのに、あえて直す。
そういう時の母は、だいたい感情を指先へ逃がしている。
「騎士服も、すっかり馴染んだわね」
「ええ」
「悔しいけれど、似合っているわ」
「ありがとうございます」
「だから今日は、母として少し複雑よ」
私は少しだけ目を伏せた。
「存じております」
兄がそこで軽く笑う。
「母上、それを正面から言うんですね」
「言うわよ。今日はそういう日でしょう?」
その通りだと思う。
兄は私を見た。
「ルクレツィア」
「何かしら」
「入学したら、最初から飛ばしすぎるなよ」
「飛ばしませんわ」
「本当か?」
「必要な時だけですの」
「それが怖いんだよ」
悪くないやり取りだった。
少しだけ空気が和らぐ。
兄はそういうところが上手い。
屋敷の前には馬車が用意されていた。
大げさすぎず、だが家格に恥じぬ程度には整っている。
父がそこを崩す人ではない。
王国騎士学校までの道中、車内は最初のうち静かだった。
私は窓の外を見ながら、自分の呼吸を確認していた。
速くはない。
浅くもない。
良い。
母が最初に沈黙を破った。
「ルゥ」
「はい、お母様」
「入学してしばらくは、きっと見られるわよ」
「ええ」
「公爵令嬢だからではなく、“王国剣術大会準優勝の公爵令嬢が来た”で見られるの」
「ええ」
「そこは分かっているわね」
「もちろんですわ」
それはかなりよく分かっている。
私はもう、ただ珍しいだけの存在ではない。
結果を持っている。
だからこそ、値踏みもされる。
父がそこで言った。
「見られるだけでは済まん。試されるぞ」
「ええ」
「家の名に遠慮して誰も何も言わぬ、などと思うな」
「思っておりませんわ」
「むしろ逆だ。遠慮をしない形で来る者もいる」
私は父を見た。
「それも存じております」
「ならいい」
父はそこで一度言葉を切った。
そして珍しく、少しだけ間を置いてから続ける。
「……勝て」
私は少しだけ目を瞬かせた。
父は窓の外を見たままだった。
「ただし、雑に勝つな」
「ええ」
「浮いて勝つな」
「ええ」
「“ああ、公爵令嬢だから”ではなく、“なるほど、こいつはこういう者か”と思わせて勝て」
それは厳しい。
だが、父らしい言葉だった。
「はい、お父様」
私は静かに頷いた。
母も続ける。
「それから」
「はい」
「あなた、困った時に全部一人で抱え込むところがあるわ」
「少しだけですわ」
「かなりよ」
母は即答した。
「だから、使える人は使いなさい。先生でも、先輩でも、家でも」
兄がそこで笑う。
「“使えるものは使う”はルクレツィアの得意分野でしょう」
「そういう意味で言っているのではありません」
母の返しがやや鋭い。
兄はすぐに口を閉じた。
悪くない流れだった。
やがて、王国騎士学校の門が見えた。
高い。
広い。
飾り気は貴族学院ほどではない。
だが、明らかに王国の教育機関としての格がある。
門の前には、すでに多くの新入生がいた。
年齢も、立場も、出自も違う者たち。
服装も様々だが、共通しているのは皆がそれぞれに“ここへ来る理由”を持っている顔をしていることだった。
良い空気だと思った。
ざわついてはいる。
だが軽くはない。
これから始まる場所の空気だ。
馬車が止まり、御者が扉を開ける。
降りる前に、私は一度だけ家族を見た。
父は私を見て、短く言った。
「行ってこい」
「はい」
母は微笑んだ。
だが、その目は少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「無理に強がらなくていいのよ」
「ええ」
「でも、あなたらしくいなさい」
「もちろんですわ」
兄はいつものように少しだけ笑う。
「何かあったら戻ってこい、とは言わない」
「言わないのね」
「お前は戻れと言われても、自分で決めるだろうからな」
それはその通りである。
「ですが、忘れるな」
兄は少しだけ真面目になった。
「お前には帰る家がある」
その言葉は、思ったより深く胸へ入った。
私は一拍だけ置いてから答えた。
「ええ。存じております」
そして馬車を降りた。
地面の感触が、屋敷の石畳とは少し違う。
空気の張りも違う。
視線も来る。
当然だ。
誰かが小さく言った。
「……あれか」
「本当に来たのか」
「公爵令嬢?」
「大会の……」
ええ。
そうなりますわよね。
だが私は足を止めなかった。
礼を崩さず、歩幅も変えず、門へ向かう。
その時、初めて本当に思った。
王国騎士学校の門を前にしても、わたくしはあまり震えておりませんでしたわ。
もちろん、心が無風なわけではない。
だが、この十年の積み上げがある。
待てる。
見られても崩れない。
必要なら最初の一手を置ける。
戻る場所も知っている。
ならば進める。
門の前で一度だけ立ち止まり、私は振り返った。
父も母も兄も、まだ馬車のところにいる。
遠い。
だが、はっきり見える。
私はそこで静かに一礼した。
公爵家の娘として。
そしてこれから騎士学校へ入る者として。
父がわずかに頷く。
母は微笑む。
兄は片手を軽く上げた。
よろしい。
私は前へ向き直った。
入学手続きを済ませ、校内へ通される。
その最初の一歩は、思っていたより軽かった。
軽いというのは、浅いという意味ではない。
迷いがないという意味だ。
五歳の頃、私は断罪を恐れて剣を求めた。
十五歳の今、私はその十年分を持って、この門を越える。
ならば、もう十分だ。
ここから先は、新しい積み上げである。
その夜、寄宿舎で最初に荷を解いたあと、私は記録帳を開いた。
王国騎士学校へ入学した。
門を前にしても、あまり震えてはいなかった。
父は勝てと言った。
母は私らしくいなさいと言った。
兄は帰る家があると言った。
そして最後に、静かにこう書いた。
ここから先は、屋敷の外で積む十年目の続きですわ。
かなり良い始まりだった。
私は羽根ペンを置き、短くなった髪を耳へかけた。
よろしい。
ついに来た。
ここからが、本当の意味での新章だ。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、ついに王国騎士学校の門をくぐり、公爵令嬢として積み上げてきた十年を、王国の中で試し続ける新しい日々へ足を踏み入れたのだった。




