幕間 ヴァルツェン公爵、王宮で娘について愚痴る
ヴァルツェン公爵が王宮へ上がったその日、彼は朝から少しだけ疲れていた。
理由は明白である。
娘だ。
ルクレツィア・フォン・ヴァルツェン。
十五歳。
王国剣術大会準優勝。
王国騎士学校進学希望。
ついでに騎士服を着こなし、髪まで切って、見た目の上でも完全に“そちら側”へ寄せてきた公爵令嬢。
そこまで来ると、もう父としては感情の整理が追いつかない。
もちろん、公爵である以上、王宮でそれをそのまま顔へ出すわけにはいかない。
執務は執務。
社交は社交。
必要な報告も判断も、きっちりとこなす。
だが、それとこれとは別だった。
午前の用件をひと通り終え、ようやく一息つける時間になった時、ヴァルツェン公爵は珍しく自分から奥の控え室へ足を向けた。
そこには旧知の顔が二人いた。
一人は宮務に長く携わる侯爵。
もう一人は王宮勤めの伯爵で、昔から無駄に人の顔色がよく見える男だった。
侯爵が公爵の顔を見るなり言った。
「……何だその顔は」
公爵は即答した。
「娘だ」
伯爵が吹き出しかけた。
「いきなりそれですか」
「それ以外に何がある」
公爵は心底疲れた声で言った。
「政務ならまだましだ。娘の方が厄介だ」
侯爵が椅子へ深く座り直す。
「また何かやらかしたのか」
「“また”と言ったな」
「言った。で、何をした」
公爵は数秒だけ黙った。
たぶん、どこから話すべきかを本気で考えていた。
やがて低く言う。
「王国剣術大会へ黙って出た」
伯爵の手が止まった。
「……は?」
「しかも準優勝した」
今度は侯爵が止まった。
沈黙。
数秒後、伯爵が慎重に聞く。
「失礼ですが、どなたがですか」
「うちの娘だ」
「公爵令嬢の?」
「ルクレツィアだ」
伯爵は完全に言葉を失った。
侯爵だけが、しばらくしてから低く笑った。
「なるほど。それは疲れるな」
「疲れるで済むか」
公爵は本気で嫌そうな顔をした。
「大会へ出たこと自体も問題だが、そのあとがもっと悪い」
「まだあるのか」
「王国騎士学校へ行くつもりでいる」
伯爵がとうとう天井を見た。
「ちょっと待ってください。公爵令嬢が?」
「そうだ」
「騎士学校へ?」
「そうだ」
「しかも、大会で結果まで出したあとに?」
「そうだ」
伯爵は顔を覆った。
侯爵は逆に少し面白そうだった。
「お前の娘、だいぶ出来上がっているな」
「笑い事ではない」
公爵は即座に切った。
「しかもだ。最初に問い詰めたら、騎士学校が駄目なら家出して冒険者、その次は剣術修行まで考えていた」
侯爵がそこでようやく目を丸くした。
「三本目まであるのか」
「ある」
「周到だな」
「周到すぎる」
伯爵が恐る恐る言う。
「……それ、もしかして最初から騎士学校を通すために二の矢三の矢まで用意していたのでは」
公爵が伯爵を見た。
「お前、嫌なことを言うな」
「ですが」
「だが、たぶんその通りだ」
公爵は深く息を吐いた。
「会議をした。家族で、本人抜きでも、本人を入れても。止めようと真面目に考えれば考えるほど、騎士学校が一番ましという結論へ近づいていく」
侯爵がとうとう声を立てて笑った。
「ははっ。それは見事だ」
「見事ではない!」
「いや見事だろう。第一案を潰された時の第二案、第三案まで現実的にしておく。止める側に比較の理屈を持ち込む。十五歳でやることではない」
「だから困っている!」
公爵は本当に声を荒げた。
だがすぐに咳払いして戻す。
王宮である。
さすがにそこは忘れない。
伯爵が少しだけ真顔になった。
「しかし、公爵。そこまで考える娘君なら、騎士学校の方が向いているのでは」
「お前までそう言うか」
「感情ではなく、適性の話です」
公爵は椅子へ深くもたれた。
「分かっている。分かっているんだ。そこが一番腹立たしい」
侯爵が片眉を上げる。
「腹立たしい?」
「理屈が通る。結果も出している。騎士学校の方が本人の性質に合っている。そこまで分かる。だがそれを認めると、公爵家の娘を騎士学校へやる父親になる」
伯爵がぽつりと言う。
「すでに王国剣術大会準優勝の時点で、かなり珍しい父親では」
「黙れ」
伯爵は素直に黙った。
だが事実ではある。
公爵はしばらく窓の外を見ていた。
その横顔は、怒りだけではなく、半ば諦めに近いものを含んでいた。
「しかもな」
低く続ける。
「騎士服を買いに行き、実用の剣を買い、髪まで切った」
侯爵が吹き出した。
「髪まで?」
「ショートカットだ」
伯爵も今度こそ笑った。
「徹底してますね」
「徹底しすぎだ」
公爵は真顔だった。
「私が帰宅して娘を見た時、一瞬誰だと思った」
「似合っていたのか」
侯爵が楽しそうに聞く。
公爵は一拍だけ黙った。
それから、非常に嫌そうな顔で答える。
「似合っていた」
侯爵がまた笑う。
伯爵も肩を震わせる。
「それはまた」
「笑うな」
「いや、だってなあ」
侯爵はまだ面白そうだった。
「お前、昔から娘には甘かっただろう」
「甘くない」
「甘いさ。でなければ、そこまでやられてまだ会議で止めるか通すか悩んでいない」
公爵は反論しかけて、やめた。
たしかにそれは少し図星だった。
完全に潰すなら、もっと早くできた。
だができなかった。
理屈が通り、結果が出ており、そして何より――あの娘は本気だった。
伯爵が少しだけやわらかい声で言う。
「公爵」
「何だ」
「愚痴としては十分聞きましたが、一つだけ」
「何だ」
「少し、誇らしいのでしょう」
公爵は伯爵を見た。
かなり不本意そうに見た。
だが、否定はしなかった。
侯爵がそこで笑いを収め、静かに言った。
「分かるぞ」
「分かる、だと」
「理屈は面倒だ。進路も面倒だ。家格も体面も厄介だ。だが、自分の娘が十年積んで、王国剣術大会で準優勝して、それでもなお次へ進む気でいる。父親として複雑でも、全部が嫌なわけではないだろう」
公爵は長く沈黙した。
やがて低く言う。
「……嫌ではない」
伯爵が頷く。
「でしょうね」
「だが厄介だ」
「それもでしょうね」
「本当に厄介なんだ」
公爵は、今度は少しだけ力を抜いて言った。
「私の娘なのに、私の想定する娘の枠へまったく収まらん」
侯爵が笑う。
「それは、案外良いことかもしれんぞ」
「お前は気楽でいい」
「他人の娘だからな」
公爵は本気で嫌そうな顔をしたが、そこで初めて少しだけ肩の力が抜けた。
愚痴る。
笑われる。
少し認める。
そういう時間が必要だったのだろう。
やがて控えの者が時間を告げに来る。
次の務めがある。
公爵は立ち上がり、服の皺を正した。
「もう戻る」
侯爵が手を振る。
「また愚痴りに来い」
「来たくて来るものか」
伯爵が最後に言った。
「公爵」
「何だ」
「娘君が騎士学校へ行ったら、今度は“王宮で娘が騎士になりたがって困る”では済まなくなりますね」
公爵は扉の前で止まり、振り返りもせず答えた。
「その時は、お前たちも巻き込む」
そう言い残して、公爵は王宮の廊下へ戻っていった。
その背は相変わらず公爵のものだった。
だが、ほんの少しだけ、“厄介すぎる娘を持った父”の背でもあった。
そしてその日、王宮の一角ではひっそりと、
ヴァルツェン公爵が娘についてかなり本気で愚痴っていた、
というどうでもよくも重要な事実だけが残されたのだった。




