幕間 第X回(数えるのをみんなが辞めた)公爵家会議(ルクレツィアを除く)
ヴァルツェン公爵家の家族会議は、本来そこまで頻繁に開かれるものではない。
少なくとも、以前はそうだった。
父が執務を行い、母が社交と家の内を整え、兄が次代として学び、必要があればその都度話し合う。
それで十分に回っていた。
だが、ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンが五歳で熱を出して以降、その均衡は静かに、だが確実に壊れた。
そして今。
王国剣術大会準優勝。
王国騎士学校進学希望。
しかも出願その他すでにかなり進行済み。
そこまで積み上がった結果として、ヴァルツェン公爵家ではまたしても家族会議が開かれていた。
ただし今回は、当のルクレツィアを除いて、である。
父は重々しく額を押さえていた。
母は静かにお茶を飲んでいる。
兄は長椅子の背へ軽くもたれ、しかし珍しく笑っていない。
しばしの沈黙のあと、最初に口を開いたのは父だった。
「……何回目だ」
兄が淡々と答える。
「もう数えるのをやめた方が早いかと」
「やめた」
父は即答した。
「十回を超えたあたりで意味を見失った」
母が静かに言う。
「正確には、剣を習いたいと言い出した時点から“臨時会議”が増えすぎたのよ」
「五歳で木剣を欲しがった日からですね」
兄が言うと、父は深く息を吐いた。
「あの日、熱のせいだと思ったのが間違いだった」
「いまだに仰るのですね」
「言う。何度でも言う」
父はきっぱり言った。
「高熱のあとに公爵令嬢が“断罪される前に最強になりますわ”と言い出したら、誰でも熱のせいだと思う」
それはそうである。
兄も、そこだけは真顔で頷いた。
「まあ、それはそうですね」
「でしょう?」
「はい。ただ、問題は熱が下がっても一切戻らなかったことですが」
父はとうとう天を仰いだ。
「戻るどころか進化していったからな」
母がカップを置く。
「しかも、妙な方向へ着実に」
「剣だけならまだ良かった」
父が言う。
「まだ、の意味はさておきだが」
兄が補足するように言った。
「礼儀作法を体幹訓練扱いし、舞踏を足運びの宝庫扱いし、お茶会を情報戦の初歩と呼び、小剣を持たせれば収め方から入った」
母が少しだけ目を閉じた。
「しかも全部、一定の成果を出してしまったのが厄介なのよね」
「そこです」
父が机を指で軽く叩いた。
「そこが一番厄介だ。途中で飽きるなら、矯正も諦めも効いた。だがあれは違う。続ける。積む。結果を出す。だから止める理屈が削られる」
兄がぼそりと言う。
「今回は王国剣術大会準優勝ですからね」
沈黙。
その事実が落ちるたび、この部屋の空気は少し重くなる。
父が低く言った。
「公爵令嬢が、黙って王国剣術大会へ出て、準優勝した」
「はい」
「そのうえ騎士学校へ進む気でいる」
「はい」
「……アルフレート」
「何でしょう」
「お前はいつから気づいていた」
兄は少しだけ考えた。
それから正直に答える。
「大会の少し前には、かなり確信していました」
父の眉が動く。
「なぜ言わなかった」
「確証がなかったのもありますし」
「他には」
「言っても、先に既成事実を作られて終わると思ったので」
父が黙る。
母が目を伏せる。
誰も否定できない。
母が静かに口を開いた。
「でも、わたくしたちも薄々は分かっていたのではなくて?」
父が母を見る。
「何がだ」
「ルゥが、もう“普通の貴族学院進学を当然視していない”ことです」
父はすぐには答えなかった。
だが否定もしなかった。
母は続ける。
「十五歳の春から、あの子の整え方が変わったでしょう。外へ出る前提の整え方になっていた。舞踏も、会話も、立ち姿も」
「気づいてはいた」
父が言う。
「だが、まさか王国剣術大会だとは思わなかった」
兄が小さく肩をすくめる。
「騎士学校込みで考えれば、むしろ自然な流れだった気もします」
「自然ではない」
父が即答した。
「公爵令嬢が騎士学校へ進む時点で自然ではない」
「ヴァルツェン公爵家の常識ではそうでしょうね」
母が言った。
「でもルゥの中では、一貫しているのよ」
父が少しだけ険しくなる。
「一貫しているから許されるわけではない」
「ええ、もちろん。でも理解はしておかないと」
母は静かだった。
怒っていないわけではない。
だが、もう感情だけで処理する段階ではないと決めている声音だ。
「ルゥは最初から、理不尽に立場を失うことを極端に嫌っていたわ」
「断罪、ですね」
兄が言う。
「そう」
母は頷く。
「私たちには極端に聞こえるけれど、あの子の中ではずっと現実なのよ。貴族学院は危険が多く、騎士学校の方が剣が通じる。だからそちらへ行く。その理屈自体は、あの子の中では崩れていない」
父は腕を組んだ。
「理屈としては分かる。だが、家の事情がある」
「ええ」
「公爵家の娘が騎士学校へ進めば、必ず話題になる」
「ええ」
「婚姻にも響く。社交にも響く。前例も薄い。体面の問題もある」
「全部その通りですわ」
母は認めた。
「でも、王国剣術大会で準優勝してしまった以上、いまさら“貴族学院へ行って何事もなく令嬢として過ごします”の方が、かえって不自然ではなくて?」
その指摘に、父は黙った。
兄もそこへ乗る。
「父上。これはかなり厄介ですが、同時にかなり中途半端に止めにくい状況です。大会へ出て結果まで出している。騎士学校へ行きたい理由も、少なくとも本人の中では首尾一貫している。ここで頭ごなしに戻すと、たぶん表向きは従っても、内側が死にます」
父が兄を見る。
「お前は賛成なのか」
兄は少し考えた。
そして、ゆっくり答える。
「全面的には賛成していません」
「では反対か」
「それも違う」
「どちらだ」
「……ルクレツィアなら、貴族学院より騎士学校の方が向いている、と思っています」
父が目を細める。
「理由は」
「貴族学院でもやっていけるでしょう。表向きは。ですが、あいつはたぶん、あそこで“令嬢として上手くやる”ことに本気の価値を見いだせない」
それは、少し残酷だが正しい評価だった。
兄は続ける。
「対して騎士学校なら、少なくとも自分の十年をそのまま使える。積み上げたものが軸になる。あいつにとってはその方が生きやすいはずです」
母が小さく頷く。
「私もそう思うわ」
「お前までか」
父は疲れた声で言う。
「私は賛成しているわけではないのよ」
母は静かに訂正した。
「ただ、ルゥがどちらで“壊れにくいか”を考えた時、騎士学校の方なのだろうとは思うの」
父は長く息を吐いた。
「つまり、二人とも理屈は分かると」
「ええ」
「はい」
兄と母の声が重なる。
再び沈黙。
父は黙ったまま窓の外を見ていた。
その横顔は、怒っているというより、計算している顔だった。
家格。
体面。
将来。
娘本人の適性。
全部を秤にかけているのだろう。
やがて父が言った。
「問題は二つだ」
兄が姿勢を正す。
母も視線を向ける。
「一つ。騎士学校へ進めた場合、家としてどう扱うか」
「ええ」
「二つ。あれを本当に外へ出してよいかだ」
母が少しだけ笑いそうになるのを堪えた顔をした。
「“あれ”呼ばわりは少し可哀想ではなくて?」
「可哀想かどうかではない」
父は真顔だった。
「ルクレツィアは、中身があまりにも出来上がりすぎている。十五歳の娘としては、だいぶ危うい」
「危うい、ですか」
兄が聞き返す。
「危うい」
父は断言した。
「理屈が通る。結果も出す。引かない。そのうえ既成事実を積んでから話す。あれを外へ出した時、周囲がどう受け取るか読みにくい」
母が静かに言う。
「でも、それは今さらでもあるわ」
「分かっている」
「王国剣術大会の準優勝で、もうかなり外へ出てしまっているもの」
父は黙った。
それが一番痛いのだろう。
実際そうだ。
もう“外へ出すか否か”の段階ではない。
すでに半分は出ている。
今さら無かったことにはできない。
兄がそこで言った。
「父上。ここで貴族学院へ押し込む方が、かえって目立つかもしれませんよ」
「なぜだ」
「大会準優勝の令嬢が、急に“何事もなかったように”貴族学院へ入る。周囲は見るでしょう。噂も立つ。なら、いっそ騎士学校へ進んだ方が筋は通る」
父が兄を見る目が少し険しくなる。
「お前は、本当にそちらへ傾いているな」
「現実論です」
「現実論か」
「はい。感情ではなく」
父は何も言わなかった。
だが、その沈黙はただの否定ではなかった。
母が最後に静かに言う。
「少なくとも、明日はルゥ本人を入れて話すべきですわね」
「当然だ」
父が頷く。
「本人を抜きに決める段階ではもうない」
兄がぼそりと言う。
「最初からそうだった気もしますが」
「アルフレート」
「はい。黙ります」
だが、それも事実だった。
ルクレツィアはもう、ただの“進路を与えられる娘”ではない。
自分で選び、自分で既成事実を積み、自分で結果を持ってきた。
ならば、次の会議は本人抜きでは成立しない。
父は最後に、かなり疲れた声で言った。
「……しかし本当に、何回目だ」
母が穏やかに答える。
「だから、もう数えるのをやめたのでしょう?」
兄が小さく笑う。
「第X回でいいんじゃないですか」
父は目を閉じた。
「もうそれでいい」
その言葉で、この夜の会議は終わった。
結論はまだ出ていない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
ヴァルツェン公爵家は、もうルクレツィアを“普通の公爵令嬢”として扱うことを諦め始めていた。
それは家としてはかなり困る。
だが同時に、事実でもあった。
――こうして、幕間・第X回(数えるのをみんなが辞めた)公爵家会議は、結論を先送りにしつつも、ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンをもはや“普通の進路へ戻せる存在ではない”と家族全員が認め始める夜になったのだった。




