第32話 王国剣術大会の会場は、思っていたよりずっと“外”でしたわ
王国剣術大会の当日、私は驚くほど静かだった。
緊張していないわけではない。
高揚していないわけでもない。
だが、それらがもう表へ溢れる年齢ではなかった。
十五歳まで積んだものは、そういうところにも出る。
礼をする。
呼吸を置く。
姿勢を整える。
それだけで、余計なざわつきは少し静まる。
前世でもそうだった。
本番の朝に必要なのは、勇気ではない。
いつも通りへ戻る力だ。
ゆえに私は、いつも通りに整えた。
母はまだ何も知らない。
父も、完全には知らない。
兄だけはたぶん、かなり怪しんでいる。
だが、今日ここまで来た以上、もう細かいことはよい。
結果を出す。
それだけだ。
会場は王都の北寄り、武術競技用の大きな施設だった。
私はそこへ着いて、まず思った。
……外ですわね。
当然である。
屋敷ではない。
庭でも舞踏室でもない。
誰も私を“ヴァルツェン公爵家のルクレツィア様”として扱う前提では見ていない。
剣を持つ者。
勝ちに来た者。
見に来た者。
運営する者。
それぞれがそれぞれの目的で立っている。
そういう空気の中へ、自分の名だけ持って入る。
これはかなり大きい。
オズヴァルトが隣で低く言った。
「どうです」
「良いですわね」
「良い、で済ませますか」
「ええ。大変によろしいですわ」
私は会場の空気を静かに吸い込んだ。
視線が違う。
音が違う。
待っている人間たちの沈黙が違う。
屋敷の中では、私はすでに周囲の前提の中にいた。
ここでは違う。
前提がない。
だからこそ、純粋だ。
「お嬢様」
「何かしら」
「今日はまず、勝つことだけを考えなさい。騎士学校も、ご家族も、その先も、今は考えない」
「分かっておりますわ」
「本当に?」
「本当にですの」
オズヴァルトは少し疑わしそうだったが、それ以上は言わなかった。
受付を済ませ、控えの場所へ通される。
そこには、年の近い少年少女が何人もいた。
平民もいれば、貴族らしき者もいる。
服装、立ち方、視線、持ち物の扱い。
見ればだいたい分かる。
面白い。
非常に面白い。
だが、今日は観察だけでは足りない。
今日は私も見られる側だ。
自分の組を確認し、私は静かに壁際へ立った。
礼をし、呼吸を整え、視線を落としすぎず、だが彷徨わせずに置く。
その時だった。
「……令嬢、か?」
近くから、小さな声がした。
私は顔を向けない。
声の向きだけ取る。
「どう見てもそうだろ」
「何でここにいるんだ」
「付き添いでは?」
自然な反応である。
そして、こちらにとってはむしろ好都合でもある。
侮られるのは悪くない。
過小評価は情報である。
オズヴァルトが小声で言った。
「聞こえておりますな」
「ええ」
「腹は立ちませんか」
「なぜ?」
「妙に落ち着いておりますな」
私は静かに答えた。
「まだ何も見せておりませんもの。評価が軽いのは当然ですわ」
オズヴァルトが低く笑った。
「それでこそです」
予選は、一本だけの派手な勝負ではなかった。
短い形式の中で、崩れず、取るべきところを取る。
そういう試合だった。
私の最初の相手は、十四歳ほどの少年だった。
背は私より少し高い。
構えは素直だが、少しだけ肩が急ぐ。
待ちきれない型だ。
私は向かい合って礼をした。
会場の気配が少し遠のく。
足。
呼吸。
視線。
相手の肩。
始まる。
最初の一合で、相手は来た。
予想通り、少し早い。
私は半歩だけ待ち、入る。
浅くではなく、必要なだけ。
取った。
歓声は大きくない。
予選の一つにすぎないからだ。
だが、静かなざわめきはあった。
「……今の」
「令嬢が?」
「いや、見たか?」
見たでしょうね。
見るために来たのですもの。
私は次も崩さなかった。
そして最初の試合を、きちんと勝った。
戻ってきた私に、オズヴァルトが短く言う。
「悪くない」
「ええ」
「浮かれていませんな」
「まだ一つですもの」
「結構」
二つ目の試合は、少し違った。
今度の相手は待つ型だった。
前へ出てこない。
こちらを見ている。
だが、その待ちは深くない。
“迷っている待ち”だ。
私は自分から最初の一手を置いた。
九歳で覚えた一手。
十歳で重さを入れた一手。
十一歳で焦らず置けるようになった一手。
十三歳で自分の型になった一手。
それを静かに出す。
相手がずれた。
そこを取る。
二つ目も勝った。
三つ目。
ここから少し空気が変わった。
周囲の目が、もう“令嬢がいる”ではなく“勝っている令嬢がいる”に変わったのだ。
控えの空気が少しだけ違う。
視線が遠慮をやめる。
値踏みが始まる。
良い。
ようやく外に出てきた感じがする。
三つ目の相手は強かった。
雑ではない。
急がない。
こちらを見ている。
年齢はたぶん同じか少し上。
始まってすぐ分かった。
これは、前の二人とは違う。
だが、怖くはない。
私は礼をし、構えた。
相手も待つ。
私も待つ。
会場の空気が細くなる。
ここで焦れば負ける。
だが、私はもう“見てからでも遅くない”を知っている。
待てる。
読める。
戻れる。
相手の呼吸がほんの少しだけ浅くなった。
迷いではない。
入る前の圧だ。
私はその前に、自分の形を置いた。
相手が応じる。
ぶつかる。
取る。
ほんの紙一枚の差だった。
だが、取った。
その瞬間、今度ははっきりと会場がざわめいた。
「誰だ?」
「ヴァルツェン?」
「公爵家の?」
「令嬢が、あの取り方を?」
そうでしょうね。
私も少しそう思いますもの。
だが、それはおかしいことではない。
十年積んだ。
ようやく出した。
それだけだ。
昼を跨ぐ頃には、私は予選を抜けていた。
控えへ戻った時、オズヴァルトは珍しく少しだけ強く言った。
「ここから先は、もう“物珍しい令嬢”では済みません」
「ええ」
「見られます。測られます。崩れるならここからです」
「分かっておりますわ」
私は水を一口だけ含んだ。
手は震えていない。
呼吸も大きく乱れていない。
良い。
まだいける。
そして、その時だった。
会場の奥、来賓席の方が少しだけざわついた。
何か高位の者が来たらしい。
私はそちらを見ない。
今見るべきではない。
だが、嫌な予感だけはした。
この規模の大会で、王都の貴族が観覧に来ること自体は珍しくない。
そして、ここまで勝ち上がった以上、私の名はそこへ届く可能性がある。
……まあ、いずれはそうなりますわよね。
父と母に知られるのが先か。
王都の誰かに見つかるのが先か。
細かい差でしかない。
兄なら、もしここにいたら笑うだろう。
“だから言っただろう。外へ出れば隠しきれない”と。
だが私は、そこで変に焦らなかった。
なぜならもう始まっているからだ。
王国剣術大会へ出ると決めた時点で、これはいずれ外へ漏れる話だった。
ならば今さら怯えても意味はない。
結果を出す。
それだけである。
午後の本戦一回戦。
相手は大柄だった。
力がある。
だが、動きはやや素直すぎる。
私は自分の型を崩さなかった。
待つ。
見る。
最初の一手を置く。
必要な時だけ前へ出る。
相手の強さを受けきるのではなく、真正面からぶつからない形で削る。
取った。
その頃には、会場のざわめきはもう明確だった。
令嬢。
公爵家。
勝ち上がっている。
しかも、ただ勢いで勝っているのではない。
見ている側も分かり始めている。
私の剣が、変に派手ではなく、妙に整っていて、しかも崩れにくいことを。
本戦二回戦。
ここで初めて、私は少しだけ押された。
相手は巧かった。
待つのも、読むのも、戻るのも知っている。
そして何より、こちらを侮っていない。
良い相手だと思った。
ここで負けてもおかしくはない。
だが、ここで取れればかなり大きい。
始まる。
一合目、様子を見る。
二合目、相手が薄く探る。
三合目、こちらが少しだけ圧を置く。
相手は乗らない。
面白い。
私はそこで、五歳から十四歳までのものを全部使った。
待つ。
読む。
最初の一手。
重さ。
戻り。
間。
そして、人前で崩れないこと。
最後は本当に紙一枚だった。
私は取った。
会場が、今度ははっきり沸いた。
その音を聞いた瞬間、私は初めて思った。
……ああ、これは本当に外なのですわね。
屋敷の中ではない。
母の視線の中でもない。
兄の軽口の中でもない。
オズヴァルトの鍛錬場でもない。
王国の中で、私は今、剣で立っている。
その実感は、静かだった。
だが、深かった。
試合を終えた私へ、オズヴァルトは短く言った。
「ようやくですな」
「ええ」
「通じました」
「ええ。少なくとも、ここまでは」
私は礼をした。
まだ終わっていない。
大会も、その先も。
だが、今日ここまで勝ち上がっただけで十分に分かったことがある。
十年積んだものは、外でも通じる。
そして、その事実はもう、きっと隠せない。
王都の誰かが見ている。
名が出れば、家にも届く。
父も母も、いずれ知る。
だが、それもまたよい。
私はもう、五歳のままではない。
十五歳の春、王国剣術大会で剣を取ったルクレツィア・フォン・ヴァルツェンである。
結果が先。
話はそのあと。
その夜、控えの宿で私は記録帳を開いた。
王国剣術大会は、思っていたよりずっと外だった。
だが、通じた。
待てた。
読めた。
人前でも崩れなかった。
そして、初めて本当に“王国の中で剣で立った”と感じた。
最後に私は、静かにこう書いた。
外へ出ても通じた。
ならば次は、その先へ進むだけである。
かなり良い日だった。
私は羽根ペンを置き、長く息を吐いた。
よろしい。
次に来るのは、おそらく結果そのものではない。
結果を知った人々の反応だ。
特に家族の。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、十五歳の春、王国剣術大会という“本当の外”でついに自分の十年を結果へ変え、その強さが屋敷の外でも通じることを証明してしまったのだった。




