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公爵令嬢に生まれたので断罪に備えていたら、なぜか王国最強になっていました  作者: 玉響すばる


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第22話 お父様、その書類の置き方は少しだけ急いでおられますわ

 “待てる強さ”の鍛錬を始めてからというもの、私は人の動きの“前”だけではなく、“動きが生まれる前の気配”にも意識を向けるようになっていた。


 肩が先に喋る。

 呼吸が浅くなる。

 視線が少し急ぐ。

 手が置かれる音がわずかに硬い。


 そういう小さなものが、案外その人の内側を表している。


 もちろん、何でも分かるわけではない。

 そこまで万能ではない。

 だが、前よりは見える。

 前よりは、拾える。


 それだけで十分価値がある。


 その日の夕方、私は父の執務室へ呼ばれていた。


 理由は単純だ。

 最近の勉学の進み具合を、父も一度見ておきたいという話である。

 礼儀作法や舞踏や鍛錬にばかり気を取られて、学業がおろそかになっていないかを確認したいのだろう。


 当然の懸念である。


 だが私は真面目なので、そのあたりも抜かりはない。

 むしろ鍛錬を始めてからの方が、勉学の時間配分まで意識するようになった。

 積み上げとは、何も身体だけの話ではない。


「失礼いたしますわ」


 私が執務室へ入ると、父は机に向かって書類を見ていた。

 机の端には何冊かの本と、封を切ったばかりらしい手紙、それから赤い紐でまとめられた書類束がある。


 父は顔を上げた。


「来たか」


「はい、お父様」


「そこへ座れ」


 私は促されるまま椅子へ腰掛けた。


 父は数枚の書類を片づけ、それから私へ視線を向けた。

 だが、その動きの途中で、私は少しだけ気づいた。


 書類の置き方が、いつもよりほんの少し硬い。


 音は小さい。

 だが、急いでいる時の置き方だ。

 雑ではない。

 けれど、静かに置こうとして少しだけ急いでいる。


 私はそのまま父の手元を見た。


 指先。

 呼吸。

 視線。


 やはり少しだけ浅い。

 何か急ぎの案件でもあったのだろうか。


「どうした」


 父が言う。


「いえ」


 私は少しだけ迷った。

 言うべきかどうか。


 だが、最近の学びは使ってこそだ。

 もちろん相手を不快にさせぬ範囲で、だが。


「お父様」


「何だ」


「その書類の置き方は、少しだけ急いでおられますわ」


 父の手が止まった。


 沈黙。


 室内の空気がぴたりと静まる。


「……今、何と言った」


「書類の置き方ですわ」


 私はできるだけ静かに言った。


「大きくはありませんの。ですが、いつもより少しだけ硬いですわ。お忙しかったのかしらと思いまして」


 父はしばらく私を見ていた。

 いつもの“また何か妙なことを言い出したな”という顔ではない。

 少しだけ、探るような目だ。


 やがて、机の上の書類へ視線を戻す。


「分かるものか」


「たぶん」


「たぶんで言ったのか」


「音と、手の動きと、少しだけ呼吸ですわ」


 父は一度だけ息を吐いた。

 その吐き方も、やはり少し浅い。


「……今日は朝から少し立て込んでいる」


 当たりだった。


 私は小さく頷いた。


「そうでしたのね」


「だが、お前に分かるとは思わなかった」


「最近、そういうものを見る練習をしておりますの」


「どういう練習だ」


「場と間を見る練習ですわ」


 父が遠い目をした。


 たぶん、頭の中で何かを諦めかけている。

 分かる気はする。


「お前は、いよいよ何を目指しているんだ」


「断罪されても崩れない公爵令嬢ですわ」


 父は目を閉じた。

 だが、今さらそこを深掘りはしない。

 たぶん疲れるからだろう。

 賢明である。


 その時、扉が軽く叩かれ、兄が入ってきた。


「父上、先ほどの返事を……ああ、ルクレツィアもいたのか」


「おりますわ」


「何をしていたんだ」


「お父様の書類の置き方が少し急いでいると申し上げたところですの」


 兄が止まった。


「何だそれは」


「そのままですわ」


 兄は父を見る。

 父は何とも言えない顔をしていた。


「……当たっていた」


 父が低く言うと、兄は片手で顔を覆った。


「最近のこいつ、本当にそういうところばかり拾うな」


 心外である。

 “ばかり”ではない。

 必要なところを拾っているだけだ。


 父は兄へ一枚の書面を渡しながら言った。


「お前まで話を広げるな」


「広げているわけじゃない。だが、言われれば分かる」


 兄はそれを受け取り、私へ目を向けた。


「お前、最近は人の手元まで見るようになったのか」


「動きの前は手に出ますもの」


「それを普通の顔で言うのが怖いんだよ」


 そこへ母まで現れた。


 今日はどういう導線なのか、この家は本当に人がよく集まる。

 いや、私のいるところへ家族が自然に寄ってくるだけかもしれない。


「何をしているの」


 母が問う。


 兄がすぐ答えた。


「ルクレツィアが、父上の書類の置き方が急いでいると見抜いた」


「まあ」


 母は扇も持たずに父を見た。

 そして、本当に一拍だけで言った。


「たしかに」


 やはりか。


 母も同じ判断なら、ほぼ間違いない。


「どうして皆そうなるんだ……」


 父が低く呟く。

 少し気の毒だが、事実は事実である。


 母は私へ視線を戻した。


「何でそう思ったの?」


 私はできるだけ整理して答えた。


「音が少しだけ硬かったこと。置く時に、静かにしようとして少し急いでいたこと。あと、視線が書類へ戻る速度が、いつもより早かったことですわ」


 母はゆっくり頷いた。


「悪くないわね」


 兄も感心したように言う。


「音まで拾うのか」


「最近は少しだけ」


 父がそこで私を見た。


「それで、お前はどうするつもりだった」


「どう、とは?」


「私が急いでいると分かったなら、何をするつもりだった」


 良い問いだ。


 私は少しだけ考えた。

 そして、すぐ答えた。


「特に何もいたしませんわ」


「……何?」


「必要なら、お父様の方から仰るでしょう? ですから、今は“そうなのだ”と分かっておくだけで十分ですの」


 父は意外そうな顔をした。


 兄も少し黙る。

 母はわずかに口元を緩めた。


「お前なら、すぐ何か口を挟むかと思った」


「前ならそうだったかもしれませんわ」


 私は正直に言った。


「でも最近、待つことも強さだと分かってきましたの」


 その瞬間、母の目が少しだけ柔らかくなる。

 兄も、ああ、とでも言いたげな顔をした。


 父はしばらく私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……そうか」


「はい」


「それなら、たしかに今は十分だ」


 よろしい。


 これはかなり大きい。

 見えたことを、すぐ使うのではなく“持っておく”という選択が父に伝わったのだ。


 たぶん、これも前進である。


 母が静かに言う。


「ルゥ、それは良い判断よ」


「本当ですの?」


「ええ。見えるようになった時ほど、すぐ使いたくなるもの。でも、見えていることを相手へ突きつけるだけが正解ではないわ」


 私はその言葉を深く受け取った。


 そうだ。


 見えることと、使うことは違う。

 使うことと、ぶつけることも違う。


 持っておく。

 必要な時まで、静かに持っておく。


 それもまた“待つ”なのだろう。


 兄がそこで笑った。

 今度の笑いは間が悪くない。

 場を崩さず、少しだけ和らげる笑いだった。


「ルクレツィア、お前、本当に変な方向へまともになっていくな」


「褒めておりますの?」


「かなりな」


 それならよい。


 私は少しだけ顎を上げた。

 父はもう何も言わなかったが、書類を置く手つきは先ほどより少しだけ静かになっていた。


 その夜、記録帳にはまた新しい頁が加わった。


 見えるようになっても、すぐ使うとは限らない。

 持っておくだけで足りる時もある。

 待つとは、知っていても急がないことでもある。

 見えることと、ぶつけることは違う。


 最後に私は、一行だけ静かに書き足した。


 気づいたことを黙って持てるのも、たぶん強さの一つである。


 かなり良い気づきだ。


 私は羽根ペンを置き、ゆっくりと息を吐いた。


 今日もまた一つ、断罪対策が深くなった。

 派手ではない。

 だが、こういうものは確実に効く。


 剣を振る力。

 待てる力。

 見える力。

 そして、見えてもすぐ使わない力。


 全部必要だ。


 ――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、ついに“気づいても黙って持っておける強さ”へまで辿り着き、断罪対策をますます静かで抜け目のないものへと育てていくのだった。

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