第12話 オズヴァルト、その癖は打つ前に肩へ出ておりますわ
舞踏の練習で兄の癖を見つけてからというもの、私は少しばかり世界の見え方が変わっていた。
いや、正確には“見ようとする場所”が増えたのだと思う。
足だけではない。
手だけでもない。
肩。
視線。
呼吸の置き方。
動き出す前の、ほんのわずかな癖。
前世でも、強い相手ほど分かりやすく構えるわけではなかった。
むしろ、本当に差が出るのは“動く直前”の小さな予兆だ。
そこを拾えるようになると、世界は少しだけ遅く見える。
そして今の私は、その入口に立ちかけている気がした。
その日の午後も、私はいつもの庭の鍛錬場に立っていた。
空は高い。
風は弱い。
日差しはやや強いが、動けないほどではない。
オズヴァルトはいつものように棒を持って現れ、グレゴールは少し離れた位置で控えている。
この光景も、だいぶ当たり前になってきた。
「では、お嬢様。今日は昨日までの復習から」
「はい」
「礼」
私は姿勢を整えた。
背筋。
肩。
手。
呼吸。
礼をして、起きる。
「よろしい」
オズヴァルトが頷く。
「次に構え。そこから一歩、打って、止める」
私は棒を持ち、静かに構えた。
最近は、ただ振るだけではなく、始まりの静けさを意識できるようになってきた。
礼で整え、呼吸を置き、雑に始めない。
それだけで、一本の質が変わる。
一歩。
打ち。
止め。
「今のは悪くありません」
「ありがとうございます」
「ただし、お嬢様は少しだけ“早く良くなりたい”気持ちが前へ出ますな」
私はぴくりとした。
「……出ておりますか」
「ええ。急いではいないが、先を欲しがる肩になっている」
肩。
私はその言葉を頭の中で転がした。
なるほど。
舞踏でもそうだった。
急ぐ癖は肩や上体へ出る。
そして今、オズヴァルトはそれを私に言った。
ということは。
私は自然と、オズヴァルトの肩を見るようになった。
その瞬間だった。
気づいた。
この人も、打つ前にほんの少しだけ右肩が動く。
ほんのわずか。
見逃す人は見逃す程度。
だが、一度気づくと分かる。
私は数度、自分の練習を続けながらそれを確認した。
やはりだ。
見本を見せる時、オズヴァルトは振りかぶるよりも前に、右肩の奥で微細に“入る”。
当然、実際の打ちではもっと隠しているのだろう。
だが、基礎を見せる時には少しだけ癖が出る。
面白い。
非常に面白い。
「お嬢様」
「はい」
「今は自分の打ちに集中なさい」
「はい」
しまった。
少し見すぎたか。
だが、私は高揚していた。
見えたのだ。
相手の予兆が。
もちろん、オズヴァルトはわざと見せている部分もあるだろう。
見本である以上、完全に隠す意味もない。
それでも“癖が見える”という経験そのものが大きい。
私はそのあとも数本打ち込み、呼吸を整えた。
「少し休憩ですな」
オズヴァルトがそう言って、私から棒を受け取ろうとする。
私は少し迷った。
言うべきか。
まだ早いか。
だが、こういう気づきは、当てずっぽうで口にすべきではない。
言うなら確認のつもりで、できるだけ丁寧に。
私は小さく息を吸った。
「オズヴァルト」
「何ですかな」
「ひとつ、申し上げてもよろしくて?」
「内容によります」
「肩ですわ」
オズヴァルトの手が一瞬だけ止まった。
「……肩?」
「ええ」
私は真顔で頷いた。
「その癖は打つ前に肩へ出ておりますわ」
沈黙。
風が芝を撫でる音だけがした。
グレゴールが少しだけ視線を上げる。
オズヴァルトは棒を受け取る手を止めたまま、私を見ていた。
「お嬢様」
「はい」
「今、何と?」
「打つ前に、右肩がほんの少しだけ先に入りますの」
私はできるだけ正確に言った。
「大きくではありませんわ。見本を見せてくださる時だけ、ほんの少し。たぶんご自身でも意識しておられない程度だと思いますの」
オズヴァルトは、数秒黙っていた。
それからゆっくりと、自分の肩を軽く回した。
「……グレゴール」
「は」
「今のを聞いて、何か分かりましたか」
グレゴールは一礼し、慎重に言った。
「正直に申し上げますと、私にはまだ判別しきれません」
「でしょうな」
オズヴァルトは小さく笑った。
だが、その笑いは軽くない。
試す目だ。
「お嬢様」
「何かしら」
「では、私がもう一度見本を見せます。どこでそう見えたか、あとで言葉にできますか」
「やってみますわ」
「よろしい」
オズヴァルトは一本、棒を持って距離を取った。
構える。
静かだ。
無駄がない。
そして、す、と入る。
やはりだ。
振り下ろしそのものより一瞬前。
右肩の奥が、わずかに先行する。
見逃しそうなほど小さいが、でもある。
「どうです」
私はすぐには答えず、一度頭の中で整理した。
「……構えから打ちへ移る前、右肩の内側が先に少しだけ決まりますわ」
「決まる」
「ええ。動くというより、“そこへ入る”感じですの。そのあと腰と足が続くので、打ちそのものは自然ですけれど、先に肩の気配がありますわ」
オズヴァルトは、今度は笑わなかった。
真面目な顔で自分の構えを反芻しているようだった。
「もう一度」
「はい」
再び見本。
同じ。
「やはりですわ」
「なるほどな……」
オズヴァルトは低く呟いた。
「若い頃に師から、“お前は入りが少し肩に出る”と言われたことがあります」
おや。
「最近は指摘されなくなっていたので、消えたものと思っていましたが……」
「消えてはいない、と」
「少なくとも、お嬢様には見えているらしい」
私は少しだけ姿勢を正した。
「当てずっぽうではありませんわよ」
「分かっております」
オズヴァルトはそこで、ふっと口元を緩めた。
「正直、驚きましたな」
それは少し嬉しい。
「舞踏で、お兄様の癖を見つけてから少し見え方が変わりましたの」
「なるほど」
「手や肩や視線が、思ったより先に喋るのだと分かってきましたわ」
オズヴァルトは静かに頷いた。
「良い傾向です」
「本当ですの?」
「ええ。ただし」
来た。
ただし、である。
この人は大事なところで必ずこれをつける。
「見えるようになるのと、見えた気になるのは違います。そこは履き違えないこと」
「はい」
「それから、癖が見えたからといって勝てるわけではない。見えたものをどう扱うかはまた別の段階です」
「それも分かりますわ」
前世でも、相手の癖を知るだけで勝てたら誰も苦労しない。
知って、耐えて、使って、初めて意味がある。
だが、それでも“見える”ことには価値がある。
見えなかったものが見えるようになるのは、確実な前進だ。
「ですが、お嬢様」
オズヴァルトの声が少しだけ柔らかくなった。
「今の指摘は、かなり良いです」
私は目を瞬かせた。
「かなり?」
「ええ。たまたまではなく、見て、整理して、言葉にしている。そこが良い」
よろしい。
かなり良い、である。
これは相当な評価ではなくて?
私は少しだけ胸を張った。
「ありがとうございます」
「調子に乗ってはいけません」
「まだ何も申し上げておりませんのに」
「顔に出ています」
……それはよくない。
だが、嬉しいものは嬉しい。
グレゴールがその時、静かに言った。
「お嬢様」
「何かしら」
「その気づきも、記録帳へ残されるのですか」
「当然ですわ」
「でしたら、今日はその項目を少し分けた方が後で振り返りやすいかもしれません」
私はそちらを見た。
「分ける?」
「自分の崩れと、相手を見て気づいたことは別欄の方がよろしいかと」
……優秀すぎる。
たしかにそうだ。
今までは自分の鍛錬内容と、外から得た学びを同列気味に書いていた。
だが、観察の精度が上がるなら項目も変えた方がいい。
「採用いたしますわ」
「恐れ入ります」
オズヴァルトが少し呆れた顔をした。
「この主従は、本当に積み上げに余念がありませんな」
「良いことではなくて?」
「悪くはない。悪くはないのですが、お嬢様の場合、真顔で進みすぎるのです」
それの何が悪いのだろう。
だが説明を求めると長くなりそうなのでやめておく。
「では、続きを」
私は棒を持ち直した。
「今度は何を意識いたしますの?」
「二つです」
オズヴァルトは指を立てた。
「一つ。自分の打ちでも肩が先に喋らないかを見ること」
「はい」
「二つ。見えたものに酔わず、一本を丁寧にやること」
「承知いたしましたわ」
私は礼をし、構えた。
呼吸を置く。
焦らない。
見えたことは確かに嬉しい。
だが、それで自分の打ちが雑になれば意味がない。
自分の肩。
足。
腰。
棒。
一歩。
打ち。
止め。
「……今のは悪くない」
「ありがとうございます」
「もう一本」
私は繰り返した。
さっきより少し静かに入れた気がする。
肩で急がない。
腰と足を先に通す。
終わりを崩さない。
「今の方が良いですな」
よし。
気づきは使ってこそだ。
そのあとの鍛錬は、不思議と少しだけ質が変わっていた。
見たものを自分へ返す意識が強くなったせいだろう。
オズヴァルトの肩。
兄の手。
母の導き。
団長の終わり。
騎士たちの礼。
全部が別々ではなく、少しずつ繋がり始めている。
良い。
非常に良い。
夕刻、鍛錬を終えた私は、いつもより少しだけ急いで部屋へ戻った。
もちろん記録帳のためである。
今日の気づきは新しい欄を作る価値がある。
自分の修正。
観察して見えた癖。
言葉にできたこと。
そこから自分へ返すこと。
私は机に向かい、帳面を開いた。
そして最初の一行にこう書いた。
癖は、打つ瞬間ではなく、その前に喋ることがある。
良い言葉だ。
今日はかなり良い日である。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、ついに“相手の動きの前触れを拾う”という新たな感覚まで掴み始め、断罪対策をますます隙のないものへと育てていくのだった。




