幕間 エリザベートの家族は、婚約の挨拶という名目で、かなり真面目にルクレツィアを愛でに行くことを決意する
レインベルク家の空気が、少しずつ妙な方向へまとまり始めていた。
最初は、婚約者の家の妹君についての話だった。
次に、公爵令嬢なのに騎士学校へ進み、準王国騎士団服を着ているという珍しさが加わった。
さらに、本気で騎士を目指していること、筋が通っていて真っ直ぐなこと、そしてそのくせ好意には少し不器用で可愛らしいことが共有された。
そこまで来ると、もはや興味は自然現象である。
母は会ってみたいと言い、
姉はかなり会ってみたいと言い、
父ですら“理屈として気になる”と言い始めた。
エリザベートは、その流れを静かに見守っていた。
少しだけ嬉しい。
かなり嬉しい。
だが同時に、一つの懸念もある。
一度に行きすぎると、ルクレツィア様が少々固まられる。
そこだけは避けたい。
だからこそ、きっかけはあくまで自然でなければならなかった。
そして、自然なきっかけは案外すぐに見つかった。
婚約の挨拶である。
兄とエリザベートの結婚に向けて、レインベルク家として改めてヴァルツェン公爵家へ正式に挨拶に赴く。
これは家格的にも段取り的にも、極めて自然だ。
むしろ遅いくらいである。
ただし。
その自然な挨拶に、母も姉も、そして父までが妙に前向きだった。
夕食の席で、母が穏やかに言った。
「そろそろ改めて、ヴァルツェン公爵家へご挨拶に伺う段取りを整えた方がよいのではなくて?」
父が頷く。
「ええ」
その頷きが、思っていたより早かった。
エリザベートは内心で少しだけ笑いそうになる。
姉がすぐに続ける。
「わたくしも同席してよろしいのよね?」
母が横を見る。
「もちろんでしょう」
父もそこは否定しない。
「家の行事だ。当然だ」
エリザベートはそこで、かなり静かに確認した。
「お父様」
「何だ」
「本当に、婚約の挨拶として、でよろしいのですよね?」
父が新聞を置いた。
「どういう意味だ」
「いえ」
エリザベートは少しだけ微笑む。
「皆様、少々ルクレツィア様へ会う気が強すぎるように見えましたので」
食卓が一瞬だけ止まる。
母が一番先に笑った。
「あら」
姉もすぐに笑みをこぼす。
「だって、会いたいもの」
父は咳払いした。
だが、その咳払いはあまり意味を成していなかった。
「婚約の挨拶が主目的だ」
「主目的」
エリザベートが静かに反復する。
姉がそこへ楽しそうに言う。
「主目的はね」
つまり、副目的は存在するということである。
よろしい。
かなり正直ですわね。
母は扇を軽く動かしながら言った。
「でも仕方ないでしょう? エリザベート、あなたがあれだけ熱心に話すのだもの」
「ええ」
「本気で騎士を目指していらして」
「ええ」
「そのうえ、かなり可愛らしいのでしょう?」
父が低く言う。
「そこを繋げるな」
「でも本質でしょう?」
姉がまったく遠慮なく頷いた。
「本質だと思うわ」
エリザベートも、そこは否定しなかった。
「ええ。本質です」
父が深く息を吐く。
だがもう、この流れを止める気はないらしい。
翌日には正式な文面が整えられ、ヴァルツェン公爵家へ婚約の挨拶に伺いたい旨が送られた。
内容は極めて妥当。
文面もきわめて正式。
何一つおかしくない。
ただし、レインベルク家の内情としては、
婚約の挨拶に赴く。
そして、かなり真面目にルクレツィアを愛でる機会も得る。
という、少々妙な二重構造になっていた。
エリザベートは、その準備の最中に何度か家族へ念を押した。
「お願いですから、一度にあまり強くいかないでくださいませ」
母がやわらかく笑う。
「分かっているわ」
姉も頷く。
「もちろんよ」
父は短く言う。
「心得ている」
だが、その“心得ている”があまり信用できない。
エリザベートはそこをよく分かっていた。
「ルクレツィア様は、真っ直ぐな好意に少し不慣れでいらっしゃいます」
「ええ」
「ですから、“可愛い”“素敵”を一度に重ねると、処理が詰まります」
母が少しだけうっとりした顔になった。
「まあ……」
「お母様」
「大丈夫よ。ちゃんと控えるわ」
その“控える”も、何か怪しい。
姉が尋ねる。
「では、どうすればいいの?」
「一つずつ、です」
エリザベートはきっぱりと言った。
「まずは普通にご挨拶なさって」
「ええ」
「それから、見て」
「ええ」
「もし本当に何か仰るなら、一つだけにしてくださいませ」
父がそこへ低く口を挟む。
「完全に取扱説明だな」
「大事ですもの」
エリザベートは本気だった。
「ルクレツィア様は、ちゃんと受け取ってくださるのです」
「ええ」
「ただ、その次の返しを丁寧に選ぼうとなさるので、量を間違えると固まってしまわれます」
姉はその説明に、本気で感心していた。
「なるほど……奥深いわね」
「ええ」
母も頷く。
「かなり」
父だけが少しだけ頭を抱えた。
「婚約の挨拶へ行く前に、ここまで対ルクレツィア戦略を練る家が他にあるのか」
「ないでしょうね」
姉が楽しそうに答える。
だが、誰もやめる気はなかった。
そしてついに、訪問当日。
レインベルク家の馬車がヴァルツェン公爵家へ向かう中、車内の空気はかなり妙だった。
緊張がある。
もちろん婚約の挨拶としての正式な緊張もある。
だがそれと同時に、
“実物のルクレツィア様に会える”
という、少々趣旨の違う高揚も確実に混じっていた。
姉が窓の外を見ながら言う。
「ねえ」
「何かしら」
「本当に、そんなに可愛らしいの?」
エリザベートは少しだけ笑った。
「かなり」
「格好良いのよね?」
「かなり」
「そのうえ、好意には少し不器用」
「かなり」
父が低く言う。
「お前、“かなり”しか言わないな」
「事実を正確に伝えております」
母がやわらかく微笑む。
「楽しみね」
エリザベートは、その言葉に少しだけ頷いた。
「ええ」
ただし、楽しみなのは自分だけではない。
隣の母も、向かいの姉も、そして新聞を読んでいるふりをしている父も、かなり楽しみにしている。
その事実が、少しだけ可笑しかった。
ヴァルツェン公爵家へ到着すると、空気は一変した。
ここからは正式な挨拶である。
家格にふさわしい礼節。
家同士の言葉。
整ったやり取り。
そこに妙な軽さはない。
父同士が挨拶を交わし、
母同士が言葉を重ね、
兄とエリザベートの婚約について、あらためて家としての確認が進む。
すべては自然に、妥当に進んだ。
そしてその流れの中で、
ヴァルツェン公爵家の娘、ルクレツィア・フォン・ヴァルツェンが姿を見せた。
その瞬間、レインベルク家の母も姉も、本当に一瞬だけ息を呑んだ。
父ですら、新聞も書類もないただの視線で、かなり真剣に見た。
エリザベートは、その反応を見て、心の中で小さく頷く。
ええ。
やはり分かりますわよね。
ルクレツィアは、今日も整っていた。
屋敷らしい装い。
けれど立ち方の芯は、ただの令嬢のそれではない。
騎士学校。
仮出向。
外を見てきた者の静かさ。
それが、立っているだけで分かる。
母が、ごく自然な微笑みのまま言った。
「初めてお目にかかります。お噂はかねがね」
ルクレツィアが礼をする。
「こちらこそ、お目にかかれて光栄ですわ」
その声と所作だけで、姉の目が少しだけ輝いた。
危ない。
かなり危ない。
エリザベートは横からごくわずかに視線を送る。
“まだです”の合図である。
姉はさすがに理解したらしい。
言葉を飲み込み、笑みだけに留めた。
よろしい。
かなり成長ですわね。
婚約の挨拶そのものは、極めて穏当に進んだ。
父は父らしく実務的に。
母は母らしく柔らかく。
エリザベートの姉も、やや熱を帯びながらも礼儀を守る。
だが、会話の節々で、ルクレツィアを見る目に“理解してしまった”色が混じり始めるのを、エリザベートは見逃さなかった。
食事の席に移ってから、それはさらに明らかになる。
レインベルク家の母が、かなり穏やかな声で言った。
「ルクレツィア様は、本当に落ち着いていらっしゃいますのね」
来ましたわね。
だが、一つだけ。
温度も適切。
ルクレツィアは一拍だけ置き、それから静かに答える。
「そう見えますかしら」
「ええ。とても」
それだけで止める。
良い。
かなり良いですわね。
今度は姉が言う。
「でも、落ち着いていらっしゃるだけではなくて、少し芯のある静けさですわね」
……少し危ない。
だがまだ許容範囲。
ルクレツィアはほんの少しだけ目を瞬かせた。
それから、ちゃんと返す。
「ありがとうございます」
よろしい。
かなり進歩しておりますわね。
エリザベートは内心でかなり喜んでいた。
推しがちゃんと受け取れている。
しかも母と姉も、一つずつ、丁寧に、を守っている。
完璧である。
だが、完璧はいつも長続きしない。
食後、庭を少し案内してもらう流れになると、やはり母と姉の中の“かなり推せる”が少しずつ前へ出始めた。
母が言う。
「エリザベートから色々伺っておりましたけれど」
「ええ」
「本当に、素敵なお嬢様ですこと」
ルクレツィアが一瞬だけ止まりかける。
だが、持ち直す。
「……ありがとうございます」
姉がそこへ重ねそうになったので、エリザベートはごく静かに肘で制した。
姉は少しだけ悔しそうにしたが、きちんと飲み込んだ。
よろしい。
偉いですわね。
その代わり、今度は父が低く言った。
「騎士学校で学ばれていると聞く」
「ええ」
「しかも仮出向まで済まされたとか」
「ええ」
「本気なのだな」
その問いは、褒めるより少し深い。
だからルクレツィアも答えやすかったのだろう。
「本気ですもの」
短い返答。
だが、それで十分だった。
レインベルク家の父は、その一言をかなり真面目に受け取ったらしい。
わずかに頷く。
「良いな」
それだけだった。
だが、その“良いな”にはかなり多くのものが入っていた。
エリザベートはそこで、少しだけ誇らしかった。
やはり父も、分かるのだ。
あの方の本気の重さが。
庭歩きのあと、応接へ戻る頃には、レインベルク家の母と姉は完全にこちら側へ来ていた。
父ですら、かなり好意的だった。
母が帰りの馬車で静かに言う。
「エリザベート」
「はい」
「あなたがあれほど気に入るのも分かるわ」
「ええ」
「本当に、格好良くて」
「ええ」
「しかも、少し可愛らしいのね」
姉が待っていましたとばかりに続く。
「そうなのよ! あの“ありがとうございます”のあとに少しだけ困る感じ、かなり強かったわ」
よろしい。
やはりそこですわね。
父が低く言う。
「お前たち、少し落ち着け」
「でも本当ですもの」
母も姉もまったく引かない。
エリザベートはそれを見ながら、静かに微笑んだ。
もう、完全にそうなのである。
婚約の挨拶。
もちろんそれが主目的だった。
家としての礼も、確認も、段取りも、何一つ欠けていない。
けれどその実態としては、レインベルク家がかなり真面目にルクレツィアを愛でに行き、しかも帰りには全員そろって“かなり推せる”という結論に至っていた。
つまり、名目は婚約の挨拶。
実質は、ルクレツィア様鑑賞会兼推し確認会であった。
そしてその事実を、誰も本気では否定しなかった。
――こうしてエリザベートの家族は、婚約の挨拶という極めて正当な名目のもとヴァルツェン公爵家を訪れながら、その実かなり真面目にルクレツィアを見て、語って、愛で、その結果として母も姉も父までもが「これはたしかにかなり推せる」と深く納得し、ルクレツィア推しの輪はついに婚約者の家族ぐるみのものへと静かに広がっていくのだった。




