第86話 エリザベート様はどうやらわたくしに構いたくて仕方がないようですわね
エリザベート様が、どうやらわたくしをかなり気に入ってしまわれたらしい。
その事実は、もはや疑いようがなかった。
一度目の来訪では「良い方か」を見た。
二度目では、向こうが明らかにこちらを気に入っていることが分かった。
そして前回、私はその推し活に本格的に巻き込まれた。
つまり、状況は十分に理解している。
理解しているのだが。
理解していることと、実際に対処できることは別である。
そして、その差を私はこの日、改めて思い知ることになった。
その朝、母は妙に穏やかな顔で言った。
「ルゥ」
「何かしら」
「今日はエリザベート様がいらっしゃるわ」
私はそこで、ほんの少しだけ動きを止めた。
「……そう」
「ええ」
母はにこやかだった。
少々にこやかすぎる。
「お兄様の件で少し打ち合わせもあるけれど、それだけではないと思うの」
それは私にも分かる。
今のエリザベート様は、兄の婚約者として公爵家へ来る。
だがそれと同時に、わたくしへ会いたい気持ちもかなり含んでおられる。
つまり、半分公務、半分私用に近い。
かなり強いですわね。
「お母様」
「何かしら」
「今日は少々、心の準備をする時間が必要なのではなくて?」
母は扇を口元へ当てた。
「もう遅いわ」
ええ。
知っておりましたわ。
兄は朝食の席で、私を見て苦笑した。
「頑張れ」
「お兄様は、婚約者を少しは制御なさるべきではなくて?」
「無理だ」
即答だった。
役に立ちませんわね。
父は父で、新聞から目を上げずに一言。
「“ありがとうございます”を先に置け」
私はそちらを見た。
「なぜお父様がそれを」
「知らん」
嘘である。
絶対に何か知っている。
だが、その一言はたしかに正しい。
最近の私は、ようやくそれを少しずつ覚え始めていた。
好意を向けられる。
まず受け取る。
それから返す。
現場で学んだ順番とは少し違うが、これもこれで一種の順番なのだろう。
昼前、エリザベート様は予定通り屋敷へいらした。
出迎えの場で、目が合った瞬間に分かった。
今日は一段と嬉しそうですわね。
「ルクレツィア様」
「エリザベート様」
礼を交わす。
その直後、やはり来た。
「本日も本当にお美しいです」
私は一拍だけ止まりかける。
だが、今日は少し違った。
「……ありがとうございます」
先に置けた。
かなり大きな進歩である。
エリザベート様は目を輝かせた。
「まあ」
あら。
何ですの、その反応は。
「ルクレツィア様、今のとても自然でした」
「そうかしら」
「ええ。素敵です」
そしてまた褒めるのですわね。
やはり強いですわね。
応接の間での話は、兄と両親を交えた段取りの確認から始まった。
そこまでは比較的穏当だった。
だが、その穏当さの裏で、エリザベート様が折々にこちらを見ているのが分かる。
目が合う。
嬉しそうに微笑まれる。
私は少しだけ視線を逸らす。
それを何度か繰り返した時点で、もう分かっていた。
この方、今日はかなり構う気ですわね。
昼食の席で、それはさらに明確になった。
「ルクレツィア様、今日はそのあとお時間あります?」
「ええ?」
「少し温室をご一緒できたら嬉しいのですけれど」
「……ええ」
断る理由はない。
だが、向こうの嬉しそうな顔を見ると、すでに少し負けた気分になる。
兄が横でぼそりと言う。
「完全に狙われてるな」
「お兄様」
「何だ」
「他人事みたいに言わないでくださる?」
「いや、他人事ではないけど、止められないものは止められない」
父が低く言う。
「諦めろ」
今日は本当に味方がおりませんわね。
食後、案の定、私はエリザベート様と温室へ向かった。
前回と同じ場所。
だが、今回の空気はもっと柔らかい。
なぜなら、もう互いに“少しは好きな相手”として分かっているからだ。
それはそれで面倒だった。
「ルクレツィア様」
「何かしら」
「この前から、ずっと思っていたのですけれど」
来ましたわね。
「ええ」
「あなたは、思っていた以上に本気で騎士を目指していらっしゃるのですね」
私は少しだけ目を瞬かせた。
それは、まっすぐだった。
だが、ただの称賛ではない。
もっと深く見たうえでの言葉だった。
「そうかしら」
「ええ」
エリザベート様は温室の花を見ながら続ける。
「最初に準王国騎士団服のお姿を拝見した時から、少し違うとは思っておりました」
「ええ」
「でも、こうしてお話ししていると、衣装や進路の珍しさではなく、本当にそこへ立とうとしていらっしゃるのだと分かります」
私はその言葉を、かなり静かに受け取った。
ええ。
この方、本当に見ておられますわね。
「本気ですもの」
私がそう答えると、エリザベート様はすぐこちらを見た。
その目がまた、かなり嬉しそうだった。
「そういうところが、本当に好きです」
来ましたわね。
私は一度だけ呼吸を置く。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そう返されると、少々調子が狂う。
しかもエリザベート様は、そのまま止まらない。
「それに」
「ええ」
「本気なのに、変に尖りすぎていないところも好きです」
「ええ」
「きちんとお兄様を大事にしていらして、ご家族のことも大事で、それでもご自分の進む方角を曲げておられない」
「……ええ」
「そんな方、構いたくなってしまいます」
私はそこで、ついに少しだけ本音を漏らした。
「構いたい、とは」
エリザベート様は、少しも困らずに答える。
「もっとお話ししたい」
「もっと知りたい」
「時々褒めたい」
「可愛らしい反応を見て、少し嬉しくなりたい」
「そういうことです」
かなり明快でしたわね。
私は少しだけ黙った。
だが、嫌ではない。
嫌ではないからこそ対処が難しい。
「それは、少々困りますわ」
「嫌ですか?」
その聞き方が、少しだけ静かだった。
だから私は、すぐに首を振った。
「嫌ではありません」
エリザベート様の顔がぱっと明るくなる。
やはり分かりやすいですわね。
この方も。
「ですが」
私は続ける。
「少々、対処に困るのですの」
「どうして?」
どうして、と聞かれると困る。
理屈はある。
あるが、説明すると少し恥ずかしい。
「そのように真っ直ぐ来られると、何を先に返すのが正しいか、少し迷いますの」
エリザベート様はそこで、一瞬だけ黙った。
そして、次の瞬間には、かなり嬉しそうに笑っていた。
「まあ」
それは本当に嬉しそうな“まあ”だった。
「では、ちゃんと受け取ってくださっているのですね」
ええ。
そこへ着地なさるのですね。
「そうですわね」
「それなら十分です」
その一言で、私は少しだけ力が抜けた。
なるほど。
この方は、完璧な返答を求めているわけではないのだ。
受け取ってもらえればいい。
少し困っても、それでもいい。
むしろ、その困り方ごと好ましいと思っている。
かなり強いですわね。
そして、かなり優しい。
「ルクレツィア様」
「何かしら」
「これからも、少し構ってよろしいですか?」
私はそこで、さすがに少し笑いそうになった。
許可を取るのですわね。
「……少しなら」
そう答えると、エリザベート様は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「では、少しずつ」
その“少しずつ”が、たぶん一番危ない。
だが、もう今さらそれを指摘するのも野暮だろう。
温室から戻る頃には、私はすでにだいぶ調子を崩されていた。
いや、崩されたというより、妙な方向へ柔らかくされた感じに近い。
母は私の顔を見るなり、ほとんど全部察したらしかった。
「あら」
「お母様」
「今日はどうだったの?」
「かなり構われましたわ」
兄がそこで笑った。
「だろうな」
「お兄様は、面白がらないでくださる?」
「いや、でもお前、ちょっと前より受け答え出来てるぞ」
父が低く言う。
「“ありがとうございます”は言えたか」
「ええ。かなり」
「なら進歩だ」
それで済ませるのですわね。
だが、たしかに進歩ではあった。
その夜、私は記録帳を開いた。
エリザベート様は、どうやら本当にわたくしに構いたくて仕方がないようですわね。
もっと話したい、もっと知りたい、時々褒めたい、可愛らしい反応を見ると嬉しい。
かなり明快にそう仰いました。
少々困りましたけれど、嫌ではありませんでした。
むしろ、きちんと見た上で構いたがってくださっているのだと分かって、少しだけ嬉しかったですわね。
そこまで書いて、私は少しだけ手を止めた。
それから最後に、一行だけ静かに足した。
どうやら“構いたい”という好意は、真正面から来られるとかなり対処が難しいですけれど、きちんと受け取ることさえ出来れば、それだけで十分喜んでいただけるもののようですわね。
……かなり強い方ですわ。
私は羽根ペンを置き、少しだけ静かに笑った。
エリザベート様は、お兄様の婚約者として良い方だった。
そして今や、それだけではなく、どうやら私をかなり構いたい方でもあるらしい。
それなら、もう少しだけ付き合ってみてもよいのかもしれない。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、エリザベートの“もっと知りたい、もっと話したい、少し構いたい”という真っ直ぐな好意をあらためて真正面から受けることになり、その対処の難しさに少々困りつつも、嫌ではないどころか、むしろ少し嬉しくなっている自分に気づいていくのだった。




