第10話 お母様、舞踏は足運びの宝庫ではなくて?
記録帳を手に入れてから三日ほどが経ち、私の鍛錬はまた少しだけ質が変わった。
大きく変わったわけではない。
朝に起き、歩法を確かめ、礼を整え、棒を振り、記録を書く。
やること自体は変わらない。
だが、記録があると一日が線ではなく面になる。
昨日より良かった点。
昨日より崩れた点。
繰り返し直されている癖。
その時の体調や集中の質。
そういうものが見えてくると、鍛錬はただの反復ではなくなる。
前世でもそうだった。
何となく頑張っている人間と、何をどう直しているか把握している人間では、積み上がり方が違う。
つまり今の私は、断罪対策をかなり良い形で積めているということだ。
素晴らしい。
その日の午後、私は礼儀作法の時間を終えて、少しばかり考え込んでいた。
理由は単純だ。
舞踏である。
最近、歩法と礼の安定が少しずつ良くなってきたせいか、礼儀作法の教師であるマルグリット夫人が、次の段階として舞踏の基礎を増やし始めたのだ。
普通の令嬢であれば、
まあ、舞踏のお稽古ですのね。
で終わる話である。
だが私にとっては違う。
舞踏とは何か。
男女が組み、音に合わせ、一定の距離を保ちつつ、重心を乱さず、美しく動く技術である。
つまり。
足運びの宝庫ではなくて?
私は廊下の途中で立ち止まり、真顔でそう考えた。
横移動。
回転。
体重移動。
相手との距離感。
手を取られた状態で崩れない軸。
しかも見栄えまで要求される。
これはかなり使える。
いや、かなりどころではない。
発想次第では相当使える。
問題は、この価値に私以外が気づいているかどうかだが、おそらく気づいていないだろう。
この世界の人々は、舞踏を舞踏として習っている。
私はそこに身体操作としての価値を見る。
視点の差だ。
そしてそういう差が、たいてい後で効いてくる。
「ルクレツィア」
不意に呼ばれ、私は顔を上げた。
母である。
今日も完璧な姿で、廊下の途中に立っているだけで絵になる。
これが公爵夫人か、と毎回思う。
「お母様」
「ずいぶん真剣なお顔で止まっていたけれど、どうしたの」
「舞踏について考えておりましたの」
母が少しだけ目を瞬かせた。
「まあ。珍しいこと」
「そうかしら」
「ええ。あなた、最近は礼も歩法も熱心だけれど、基本的に発想が武張っているでしょう」
失礼である。
否定はしづらいが、失礼である。
「その舞踏について、何を考えていたのかしら」
私は少しだけ迷った。
ここで正直に言うと、また変な顔をされる気がする。
だが、隠しても仕方ない。
舞踏の重要性を理解してもらえれば、練習への熱量も許容されやすくなる。
ならば言うべきだ。
「舞踏は、かなり実用的ではなくて? と思いまして」
母の口元が止まった。
「……実用的」
「ええ。足運び、距離感、姿勢、回転、手を取られた状態での軸の維持、相手に動きを合わせながらも自分の重心を保つこと。かなり鍛錬向きですわ」
沈黙。
母は私を見つめ、私は母を見上げた。
数秒後、母がゆっくり扇を口元に当てる。
「ルゥ」
「はい」
「あなた、本当に何でも鍛錬へ繋げるのね」
「使えるものは使うべきですもの」
母は一度目を閉じ、それから少しだけ肩を震わせた。
笑っている。
「お母様?」
「いえ、ごめんなさい。あまりにもあなたらしくて」
そんなにおかしなことを言っただろうか。
だが、母の反応は悪いものではない。
「とはいえ」
母は扇を下ろした。
「あなたの言うことにも、一理ありますわ」
おや。
これは予想外に良い反応である。
「本当ですの?」
「ええ。少なくとも、舞踏が見た目だけのものではないのは事実よ。姿勢も、呼吸も、歩幅も、相手との距離も、全部揃わなければ美しく見えないもの」
やはり。
私は内心で大きく頷いた。
「それに、貴族社会では、舞踏の最中に相手の癖や性格が見えることもありますわ」
「癖」
「ええ。急ぐ方、雑な方、自分本位な方、こちらの重心を無視して引っ張る方。逆に、よく見て合わせる方、こちらを不安にさせない方。意外と全部出るのよ」
私は息を呑んだ。
それはつまり、身体操作だけでなく人物観察にも使えるということではないか。
素晴らしい。
舞踏、思っていた以上に有能である。
「お母様」
「何かしら」
「やはり舞踏は重要ですわね」
「あなたの場合、意味が少し違う気もするけれど、ええ。重要よ」
母はそこまで言って、少し考えたように目を細めた。
「……そうね。今日は少し予定を変えましょうか」
「まあ」
「ちょうど小舞踏室が空いているはずだわ。基礎だけ、わたくしが見てあげてもよろしくてよ」
私は目を見開いた。
母が直々に。
これはかなり大きい。
マルグリット夫人の礼儀作法も厳密で素晴らしいが、母の舞踏はたぶん別格だ。
宮廷公爵夫人として実戦経験が違う。
「ぜひお願いいたしますわ」
「そんなに嬉しそうな顔をされると、少し複雑ね」
「実用的ですもの」
「本当にそういうところよ」
母は苦笑したが、機嫌は悪くない。
そのまま私は母に連れられ、小舞踏室へ向かった。
磨かれた床。
大きな鏡。
壁際の椅子。
天井は高く、音の響きもよい。
広すぎず、基礎を見るにはちょうどよい空間だった。
「まず、今日は組まずに一人でやるわ」
母が言う。
「いきなり相手をつけるより、自分の軸を掴む方が先よ」
「はい」
「立ってみなさい」
私は部屋の中央へ出た。
足を揃えすぎず、開きすぎず。
背筋を立て、肩を抜き、顎を整える。
母は少し離れたところから私を見ている。
視線が厳しい。
だが、どこを見るかが明確な人の目だ。
「悪くないわね」
母が言う。
「でも、鍛錬の時より少し肩が硬いわ」
「舞踏ですもの」
「そういう意識が余計に硬くするの」
なるほど。
私はわずかに力を抜いた。
「今の方が良いわ。では一歩」
私は前へ出る。
「止まって」
ぴたりと止まる。
「次、横へ」
横へ流す。
「そこで回って」
回る。
最初はぎこちなかった。
当然だろう。
礼の歩法とも、棒を持つ時とも、微妙に違う。
だが、少し繰り返すだけで感覚が見えてくる。
舞踏では、ただ速く動けばいいわけではない。
相手がいる前提の間と、見せ方の整いが必要だ。
しかも足だけではなく、上体や首の向きまで含めて“崩れないこと”が求められる。
面白い。
とても面白い。
「ルクレツィア」
「はい」
「今、楽しいでしょう」
「ええ」
「顔を見れば分かるわ」
母が少し笑った。
「でも、足運びだけに意識が寄りすぎると、首が固くなりますよ」
「はい」
「それから、回る時に少しだけ急ぐ癖があるわね」
私はその言葉にぴくりとした。
急ぐ癖。
たしかにあるかもしれない。
前世でも、攻め気が強い時ほど最初の入りを急ぎやすかった。
今世でも、鍛錬への熱量がそのまま動きへ出るのだろう。
「急ぐとどうなりますの?」
「雑に見えるし、相手も不安になるわ」
それは大きい。
見た目の問題だけではない。
相手との接触がある場で、不安にさせる動きは信頼を失う。
舞踏に限らず、かなり重要な話である。
「もう一度」
「はい」
私は息を整えた。
急がない。
置きにいかない。
流れを切らない。
相手がいる前提で、自分だけ勝手に動かない。
一歩。
横。
半回転。
止まる。
「今の方が良いわ」
母が言った。
「あなた、理解が早いのね」
「見えてくると面白いですもの」
「またそれ」
母は呆れ半分、感心半分の顔をした。
そのあとも、私は何度も繰り返した。
前へ。
横へ。
回る。
止まる。
視線。
肩。
手の位置。
呼吸。
やがて私は、ふとあることに気づいた。
「お母様」
「何かしら」
「舞踏は、一人で上手くなろうとしてはいけませんのね」
母の目が少し柔らかくなった。
「どうしてそう思ったの?」
「相手がいる前提で動くのに、自分だけ綺麗に見せようとすると、たぶん崩れますわ」
「ええ。その通りよ」
母は静かに頷いた。
「舞踏は、自分を保ちながら相手も生かすの。自分だけでも駄目。相手任せでも駄目。だから難しいし、だから人柄も出る」
私はその言葉を胸の中で反復した。
自分を保ちながら相手も生かす。
なるほど。
それは舞踏の話だが、たぶん宮廷の社交も同じなのだろう。
そして、鍛錬にも少し通じる気がする。
自分だけが勝手に強くなろうとしても、見えるものは狭い。
相手がいて、環境があって、その中で崩れず整うことが本当の強さなのかもしれない。
……これはかなり大きな学びだ。
「何を考えているの」
母が私の顔を覗き込むようにして問う。
「舞踏、思っていた以上に奥が深いですわね」
「でしょう?」
「はい。かなり」
母は少しだけ誇らしそうに笑った。
「あなたがそこまで言うなら、教え甲斐もあるわ」
私は小さく一礼した。
「お願いいたします、お母様」
「ええ。では次からは、舞踏も“きちんと”組み込みましょう」
組み込みましょう。
その言葉に、私は内心で静かに拳を握った。
勝った。
いや、何と戦っていたわけでもないのだが、これはかなり大きい。
舞踏が正式に鍛錬計画へ入る。
それも母公認で。
足運び。
距離感。
回転。
軸。
相手の癖を見る視点。
全部が使える。
全部が積み上がる。
よろしい。
これでまた、断罪対策の幅が広がった。
その後、私は部屋へ戻ると、すぐに記録帳を開いた。
今日の学びを書き残すためだ。
舞踏は足運びの宝庫。
急ぐ癖が出る。
相手を不安にさせる動きは駄目。
自分を保ちながら相手も生かす。
美しく見える動きは、無理が少ない。
書けば書くほど整理される。
やはり良い。
私は羽根ペンを走らせながら、自然と口元を緩めた。
社交も。
礼儀作法も。
舞踏も。
歩法も。
棒の操作も。
全部が繋がり始めている。
それはとても静かで、だが確かな手応えだった。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、ついに舞踏すら足運びと距離感の訓練として自分の中へ取り込み、公爵令嬢としての教育をことごとく断罪対策へ変換していくのだった。




