第376話 side??
第376話 side??
魔族領――。
人の住む大陸から遥か北西。
瘴気と魔力に満ちた大地のさらに奥深く。
雲海を突き抜けた先に存在する、誰一人として足を踏み入れることのできない霊峰。
その頂に、《星喰竜アジ・ダハーカ》はいた。
翼を畳んでなお山脈と見紛うほどの漆黒の巨体。その瞳は、悠久の時を見続けてきた者だけが持つ静かな深みを湛えている。
その存在は、ただの古竜ではない。
――十七厄災。
世界に災厄をもたらす存在として記録される、規格外の怪物たち。
その中にあって、アジ・ダハーカは“最上位”に位置づけられる存在だった。
他の厄災が「災害」であるならば、アジ・ダハーカは「世界そのものの敵対者」と定義される。
その格は、他の十七厄災とは一線を画していた。
その眼前には、一人の男が立っていた。
魔王アシュレイ。
彼は腕を組み、遥か遠くに広がる地上を静かに見下ろしていた。
「……やはり、このままではいけない」
長い沈黙を破り、アシュレイが呟く。
「人と魔族が争い続けなければ、世界の均衡は崩れる。だが、このまま戦いを続ければ、犠牲だけが積み重なっていく」
大気を震わせる重厚な声が返ってきた。
『何度も言っているであろう。不可能だ』
「……分かっている」
『いいや。分かっておらぬから、こうして何度も我のもとへ来る』
アシュレイは答えない。
その沈黙だけで十分だった。
アジ・ダハーカは静かに瞳を細める。
その視線は、ただの会話相手に向けるものではない。
かつて十七厄災の中でも頂点に立ち、幾度となく他の厄災を“格の差”で沈めてきた絶対者の視線である。
『この世界の法則そのものを書き換える』
『それは、たとえ神々であっても不可能であろう』
「神々が力を合わせてもか?」
『神々が地上に顕現していた、あの時代でさえ不可能だった』
その言葉に迷いはない。
神話を語る者ではない。神代を生き抜いた者だからこそ断言できる真実だった。
『ましてや、今の力を失った神々では絶対に成し得ぬ』
「……そうか」
『諦めよ、アシュレイ』
静かな声だった。
だが、その一言には長い年月を共に歩んできた友を案じる色があった。
「それができるのなら、とっくにしている」
魔王は苦笑する。
『であろうな』
アジ・ダハーカは小さく息を吐く。
その吐息だけで雲海は裂け、巨大な空洞が生まれる。
――それは、無意識の一息で地形を変えるほどの圧。
十七厄災の中でも、これほど自然に世界へ干渉できる存在は他にいない。
『お前は昔から、無駄なことを諦められぬ』
「それをお前に言われるとは思わなかった」
『我は諦めがよい。故に、今もこうして生きている』
その時だった。
二人はほぼ同時に視線を動かす。
――誰かいる。
先ほどまで、確かに何の気配も存在しなかった。
にもかかわらず。
霊峰の端に、一人の人影が静かに立っていた。
『ほう』
アジ・ダハーカの声に、わずかな興味が混じる。
それは十七厄災の頂点に立つ者が、久方ぶりに“対等の可能性”を感じた瞬間だった。
『我らにここまで近づきながら、直前まで気取らせぬとは、何者だ?』
「凄まじいな……」
アシュレイも人影を見据える。
その人物が歩みを進めるたび、隠されていた気配が少しずつ解放されていく。
空気が重い。
だがそれでも――アジ・ダハーカの放つ圧とは“質”が違う。
それは、“格上の存在”を思わせる圧だった。
『この気配……』
アジ・ダハーカが目を細めた。
その瞳に、明確な警戒が宿る。
『かつての神々に匹敵するか』
そして、その言葉には一つの前提が含まれていた。
――神々と並び立つ存在であっても、なお“自分と同格かそれ以上かもしれない”という評価。
それは、十七厄災の頂点に立つ者だからこそ成立する判断だった。
「……ああ」
アシュレイも頷く。
「今の時代に、これほどの存在がいたとはな」
『どうする、アシュレイよ』
「何がだ?」
『信じ難いことだが――』
巨竜は静かに続けた。
『我らでは、あれには及ばんぞ』
その言葉は謙遜ではない。
十七厄災の序列を知る者が、純粋な戦力差として導き出した結論だった。
アシュレイはしばらく沈黙し、人影から目を離さなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……そのようだな」
人影はゆっくりと歩み寄る。
黒い外套、深く被られたフード。そして二人の前で足を止めると、静かにフードを外した。
現れたのは、一人の青年だった。
「こんばんは」
青年は穏やかな笑みを浮かべる。
「お話ししたいことがあり、お邪魔させていただきました」
『我らに話だと?』
アジ・ダハーカが低く唸る。
その声には、十七厄災の頂点としての威圧が確かに宿っていた。
『それだけの気配を漂わせておいてか?』
「これは失礼しました」
青年――ルシアンは軽く頭を下げた。
「お二人には、こちらの方が話が通じやすいかと思いまして」
「つまり」
アシュレイが静かに問いかける。
「力を示すために気配を解放したということか」
「はい」
ルシアンはあっさりと頷く。
「私が話すに値する者だと、まず理解していただく必要があると思いましたので」
「戦う意思はないのだな?」
「もちろんです」
ルシアンは両手を軽く広げてみせる。
「私は、話をしに来ました」
『……ふむ』
アジ・ダハーカは巨大な鼻先をルシアンへ近づける。
突風が吹き荒れる。
それでもルシアンは微動だにしない。
『よくよく感じてみれば……懐かしい気配だ』
古竜の声から警戒が少しだけ薄れた。
『これは……ベルグラードか?』
ルシアンの表情が、ほんのわずかに変わる。
『いや、それだけではない。他にも何柱か混じっているな』
「分かるのですか?」
思わず漏れた問いに、アジ・ダハーカは鼻を鳴らした。
『我を舐めるなよ、人間。これでも、この地上で最も長く生きているのだからな』
そして同時に、それは宣言でもあった。
――十七厄災の頂点として、世界の“古さ”すら見通す存在であるという事実。
ルシアンは数秒だけ沈黙したあと、小さく笑う。
「失礼しました」
そして、魔王と古竜を真っ直ぐ見据えた。
「それでは、改めてお話しさせていただきます」
穏やかな空気が消える。
その場に立つ全員の表情が引き締まった。
「人と魔族が争い続けなければならない、この世界の均衡について」
アシュレイの瞳が鋭くなる。
アジ・ダハーカもまた、静かに首を持ち上げた。
ルシアンは続ける。
「そして――」
一拍置いて。
静かに告げる。
「その均衡を、終わらせる方法について」
その言葉を聞いた瞬間。
魔王アシュレイの瞳が、大きく見開かれた。




