第372話
第372話
「なぜ……」
静寂を破ったのはアウグストだった。
「なぜ、そこまでして種族の垣根を越える必要がある。人間だけでは勝てないというのは理解した」
「だが、魔族とは長年争い続けてきた。今さら共に戦えと言われても、簡単に受け入れられるものではない」
その言葉に、ラグナルも静かに頷く。
ルシアンは二人を見渡し、静かに口を開いた。
「邪神は強大です」
短い一言。
それだけで空気が張り詰める。
「現在、世界各地で魔物の活動が活発化しています。お二人も報告を受けているはずです」
アウグストは頷く。
「確かに、例年では考えられない頻度で魔物の被害が報告されている」
「ですが」
ルシアンは静かに首を振った。
「それは前兆に過ぎません。邪神が顕現した時、その程度では済まないでしょう」
淡々と告げる。
「魔物はさらに狂暴化し、数も増えます。邪神の瘴気は世界中へ広がり、人々は休む間もなく魔物との戦いを強いられるでしょう。一つの国だけで耐えられる規模ではありません」
ラグナルの表情が険しくなる。
彼も戦場を知る男だ。
その言葉が決して大袈裟ではないことを理解していた。
「もし、その時になっても」
ルシアンは続ける。
「種族同士が憎み合ったままだとしたら、各々が自分たちだけを守ろうとしたなら」
一拍置く。
「邪神には勝てません」
その断言に、誰も反論できなかった。
「……だから、協力しろと」
アウグストが静かに尋ねる。
「はい」
ルシアンは頷く。
「これは前例のない話ではありません」
二人の視線が集まる。
「神代、邪神が世界へ災厄をもたらした時、本来なら相容れないはずだった善なる神々と悪なる神々は、一時的に手を取り合いました」
「共通の敵を前に、争うことをやめたのです」
静かな声が部屋に響く。
「だからこそ、邪神を封印できた」
「もし神々が互いを憎み合い、戦い続けていたなら、世界はあの時、滅んでいたでしょう」
アウグストはゆっくりと目を閉じる。
神話として伝わるその出来事。
それを今、目の前の青年はまるで見てきたかのように語っていた。
「今度は私たちの番です」
ルシアンは真っ直ぐ二人を見据える。
「神々がそうしたように、私たちも種族という垣根を越えなければなりません」
部屋に沈黙が流れる。
その静寂の中で、ルシアンは最後の願いを口にした。
「だから、お二人にはお願いがあります」
「聖国リュミエルに住む人々へ、他種族とも協力できるよう、少しずつ導いていただきたいのです」
アウグストは眉を寄せる。
「導く……か」
「はい。ですが、無理強いはしないでください」
その言葉に、二人は意外そうな表情を浮かべた。
「絶対に協力させろとは言いません。中には」
ルシアンは静かに目を伏せる。
「魔族に家族を殺され、深い憎しみを抱えている方もいるでしょう。逆に、人間を憎んでいる魔族もいます。その感情まで否定するつもりはありません」
それは人として自然な感情だ。
失った命は戻らない。
悲しみも、怒りも、簡単に消えるものではない。
「人の感情は、誰にも制御できません。私にも、神々にも、だからこそ」
ルシアンは穏やかに微笑んだ。
「私は全員に協力してほしいとは思っていません。ただ一人でも多く、ほんの少しでも多く、共に戦おうと思ってくれる人が増えてほしいのです」
その願いは、とても控えめだった。
理想を押し付けるのではない、憎しみを捨てろとも言わない。
ただ、一歩だけ。
未来のために歩み寄ってほしい。
その謙虚な願いだったからこそ。
アウグストもラグナルも、しばらく言葉を失っていた。




