第367話
第367話
「私自身が、新たな邪神となります」
その言葉を最後に、白い空間は静まり返った。
フィアナは目を見開いたまま、ルシアンを見つめている。
何かを言わなければならない。
そう思っているはずなのに、声が出ない。
邪神を復活させ、その邪神を吸収する。そして、ルシアン自身が邪神となる。
あまりにも現実離れした話だった。
だが、目の前には光の神ルミナリアがいる。
ルミナリアが、この話を否定していない。
それだけで、ルシアンの言葉が真実なのだと理解できてしまう。
「どうして……」
ようやく、フィアナの口から声が零れた。
「どうして、そこまでしなければならないのですか?邪神を吸収した後、その力を抑え続けることはできないのですか?」
ルシアンは静かに首を横へ振った。
「いいえ。邪神を吸収すること自体が、計画の終わりではありません。むしろ、そこからが本当の始まりです」
「始まり……?」
「ええ」
ルシアンはフィアナの瞳を見つめた。
「邪神となった私は、世界共通の敵になります」
フィアナの表情が強張る。
「人間も、魔族も、その他の種族も。全ての者が協力しなければ倒すことのできない、世界最大の脅威となります」
「そして私は――邪神として討たれます」
「……討たれる?」
震える声で問い返す。
ルシアンは何の迷いも見せずに頷いた。
「はい。勇者であるレオンと、魔族の長である魔王、その二人を中心とした連合軍の手によって」
レオンと魔王。人間を象徴する勇者、魔族を束ねる王。
本来ならば、同じ場所に立つことすら考えにくい二人。
その二人が共にルシアンを討つ。
「なぜ、その二人でなければならないのですか?」
「象徴となるからです」
ルシアンは淡々と答える。
「人間側の希望である勇者、魔族側の頂点である魔王。二人が共に戦い、世界を救う」
「その事実が重要なのです。一時的に手を組むだけでは足りません。共に傷つき、共に戦い、共に勝利を手にする必要があります」
世界を滅ぼしかねない敵を前にすれば、種族の違いを理由に争っている余裕はない。
互いを嫌う者たちであっても、生き残るためには協力せざるを得ない。
そして、その共闘の末に勝利すれば。
少なくとも、互いを敵としか見ていなかった関係には変化が生まれる。
「私という世界共通の敵を作ることで、種族の垣根を越えた協力を促します」
「人間だけでは勝てない、魔族だけでも勝てない。異なる種族が力を合わせたからこそ、世界を守ることができた」
「その経験を、世界全体に刻み込むのです」
フィアナは拳を握り締めた。
「そのために……ルシアンが犠牲になるというのですか?」
「必要な役割です」
「そんな言い方をしないでください!」
白い空間に、フィアナの声が響いた。
ルシアンが僅かに目を見開く。
フィアナは悲しげに顔を歪めていた。
「役割などではありません。あなたの命の話をしているのですよ。世界を救うためなら、自分が死んでも構わないと……本当にそう考えているのですか?」
ルシアンはすぐには答えなかった。
フィアナの隣で、ルミナリアも悲しげな瞳を向けている。
短い沈黙の後、ルシアンはルミナリアへ視線を移した。
「ルミナリア様。世界の均衡について、フィアナに話しても構いませんか?」
その問いに、ルミナリアの表情が僅かに曇る。
世界の根幹に関わる秘密。
本来であれば、人へ明かすべきものではないのだろう。
しばらく考えた後、ルミナリアは静かに頷いた。
「構いません。ここまで話した以上、フィアナには全てを知る権利があります」
「ありがとうございます」
ルシアンはフィアナへ向き直った。
「この世界には、均衡を維持するための仕組みが存在します」
「均衡……?」
「はい」
「世界は、善と悪の二つの異なる性質を持つエネルギーによって保たれています」
「善のエネルギーを多く宿しているのは、人間や亜人をはじめとした人側の種族」
「悪のエネルギーを多く宿しているのは、魔族や魔物です」
フィアナは戸惑ったように尋ねる。
「魔族が悪だから、悪のエネルギーを持っているということですか?」
「いいえ」
ルシアンは即座に否定した。
「ここでいう善と悪は、人格や行いを示す言葉ではありません。世界を構成する、性質の異なる力を便宜的にそう呼んでいるだけです」
「人間にも悪人はいます。魔族にも善良な者はいるでしょう。それとは別の話です」
その説明に、フィアナは僅かに安堵した表情を浮かべる。
「二つのエネルギーは、本来ならば世界の中を循環しています。そして最も大きな循環が生まれるのは、双方がぶつかり合った時です」
「簡単に言えば――人側と魔族や魔物が戦うことによって、世界を維持するためのエネルギーが生まれています」
フィアナは息を呑んだ。
「では……人間と魔族が争い続けているのは……」
「世界が、そうなるように作られているからです」
ルシアンの声は静かだった。
しかし、その言葉はあまりにも重い。
「どちらかが争いをやめようとしても、均衡が崩れ始めれば、別の場所で争いが生まれます。あるいは魔物が増え、世界そのものが戦いを求めるようになる」
「この仕組みが存在する限り、争いを完全になくすことはできません」
「そんな……」
フィアナの顔から血の気が引いていく。
人々がどれほど平和を願っても、どれほど犠牲を払い、憎しみを乗り越えても、世界を保つ仕組みそのものが争いを必要としている。
それでは、戦いは永遠に終わらない。
「ですが、私の中には現在、両方のエネルギーが存在しています」
ルシアンは自身の胸へ手を当てた。
「人として生まれ、善の側に属する力。魔物や魔族を取り込んだことで得た、悪の側に属する力。本来ならば相反する二つの力が、私の中では共存している」
「だからこそ、可能性があります」
「可能性……?」
「私自身が、世界の循環を担うことです」
フィアナは言葉を失った。
「邪神となった私は、膨大な善と悪のエネルギーを持つことになります。その力を世界の循環へ組み込めば、人間と魔族が争うことでエネルギーを生み出す必要はなくなる」
「私一人を循環の中心に据えることで、世界は戦いを求めなくなります。そして邪神として討たれることで、世界中の者たちに種族を越えた協力を経験させる」
「仕組みと意識の両方を同時に変えることが、私の計画です」
フィアナは震える唇を開いた。
「でも……討たれてしまえば、ルシアンは死んでしまうではありませんか」
ルシアンは答えない。
その沈黙が、何よりも明確な答えだった。
「ルミナリア様」
フィアナは縋るように光の神を見る。
「神々は、この計画を認めているのですか?」
ルミナリアは悲しげに目を伏せた。
「私たちがルシアンへ願ったのは、邪神の問題を終わらせることです。この計画の全てを命じたわけではありません」
「ですが、現在の私たちには、これ以上の方法を示すことができませんでした。その結果、ルシアンは自らこの道を選んだのです」
「そんな……」
「申し訳ありません、フィアナ」
神であるルミナリアの声にも、深い苦悩が滲んでいた。
ルシアンは静かに話を続ける。
「今はまだ、レオンと私は仲間です。ですが、最終的には敵対しなければなりません」
「レオンには、私を世界の敵として討ってもらう必要があります。その時、迷いが生まれれば計画は失敗します」
「ですから、レオンには最後まで真実を話すことができません」
フィアナの瞳が揺れる。
「レオンを……騙すのですか?」
「そうなります」
「仲間として信頼させて、強くして。最後には、自分を憎ませるというのですか?」
「必要であれば」
「必要であればではありません!」
フィアナの声が再び響く。
「レオンが、どれほどあなたを信頼していると思っているのですか?あなたを倒した後で真実を知れば、どれほど苦しむか……」
「だからこそ、真実を知られるつもりはありません。誰にも知られず、邪神として終わる。それが最も望ましい形です」
フィアナは呆然とルシアンを見つめた。
自分だけが憎まれればいい、自分だけが悪になればいい。世界が救われるのであれば、自分の真実など誰にも知られなくていい。
ルシアンは本気でそう考えている。
だからこそ、フィアナには耐えられなかった。
「フィアナ」
ルシアンは静かに彼女の名を呼んだ。
「あなたに、協力してほしいのです」
「……私に?」
「はい」
「レオンを強くしてください。勇者として、魔王と並び立ち、邪神となった私を倒せるほどに」
「そして、その時が来るまで、この計画を誰にも明かさないでください。最終的に私とレオンが敵対した時も、彼の隣に立っていてほしい」
「彼が迷わず剣を振るえるように、彼が私を討った後も、勇者として世界を導けるように」
「あなたの力を貸してください」
フィアナは俯いた。
胸の前で握り締めた両手が、小さく震えている。
ルシアンが求めているのは、ただ秘密を守ることではない。
彼を死へ向かわせる計画に加わること。
レオンを育て、いつかルシアンを討たせること。
そして全てが終わった後、何も知らないレオンを支えること。
そんなことを、簡単に受け入れられるはずがない。
「……嫌です」
小さな声だった。
それでも、白い空間にはっきりと響いた。
ルシアンは何も言わない。
フィアナは顔を上げる。
瞳には涙が浮かんでいた。
「あなたが死ぬための協力など、したくありません。ですが――」
フィアナは涙を拭うことなく、ルシアンを真っ直ぐに見つめた。
「何も知らないまま、あなたを一人で行かせることもできません。だから、協力します」
「フィアナ……」
「ただし、勘違いしないでください」
フィアナは強い口調で告げた。
「私は、あなたの計画を成功させるためだけに協力するのではありません。レオンを強くします。皆さんを支えます。秘密も守ります」
「ですが同時に、あなたが死なずに済む方法を探します。最後まで、絶対に諦めません」
ルシアンは僅かに目を見開いた。
「たとえあなた自身が諦めていたとしても。私は、あなたを救うことを諦めません」
その言葉に迷いはなかった。
ルミナリアは、そんなフィアナを静かに見つめる。
やがて、その表情に柔らかな微笑みを浮かべた。
「それでいいのです」
ルシアンがルミナリアへ視線を向ける。
「ルミナリア様?」
「ルシアン」
ルミナリアは慈しむような瞳で彼を見つめた。
「世界を救おうとする貴方を、誰かが救おうとしてもよいでしょう」
白い空間に、再び静寂が訪れる。
ルシアンはしばらく何も答えなかった。
ただ、真っ直ぐにこちらを見るフィアナから、僅かに視線を逸らした。
「……好きにしてください」
それは拒絶ではなかった。
フィアナは涙を浮かべたまま、小さく頷く。
「はい。好きにさせていただきます」
こうしてフィアナは、ルシアンの秘密を知った。
世界の仕組みを、彼が進もうとしている未来を。
そして、いつの日か勇者レオンと敵対するという、残酷な運命を。
それでもフィアナは決めた。
彼の計画に力を貸す。
だが、決して彼を死なせはしない。
たとえ世界そのものを相手にすることになったとしても。
最後まで、ルシアンを救う方法を探し続けると。




