第29話
第29話
出発は翌朝だった。夜の間に最低限の捜索と整理は行われたが、生存者はほとんど見つからず、街に残るのは瓦礫と焼け跡、そして記録だけだった。
アルベルトは隣街の兵と短く言葉を交わし、必要な人員を残す判断を下す。領地の管理と復旧の初動は彼らに任せるしかない。
「ここは頼む」
「はっ」
簡潔なやり取りだが重い。
ルシアンはその様子を静かに見ていた。兄はすでに“戻る側”ではなく“動かす側”に立っている。
準備はすぐに整い、護衛の騎士数名と最低限の物資で一行は動き出した。
街を出る時、ルシアンは一度だけ振り返る。
崩れた門。焼けた壁。煙の残る空。
そこにあった日常は、もうどこにもない。
だが足は止めない。
前へ進む。それだけだった。
道中は静かで、必要な連絡以外の会話はない。
馬の蹄と装備の金属音だけが続く。
数時間進み、日が傾き始めた頃、森の外れで野営に入った。
「ここで休む。夜明け前に出る」
アルベルトの指示に従い、騎士たちは無駄なく陣を整える。
ルシアンは少し離れた場所に立ち、周囲の気配を探る。
魔物はいるが、この程度なら問題はない。
夜が深まり、見張りが交代する頃、ルシアンは静かに森の奥へ入った。
気配を消し、足音を殺す。
やがて、小さな影が動いた。
ゴブリン。一体。
こちらに気づいていない。
背後に忍び寄り、ルシアンはゆっくりと手を伸ばす。
内側の“力”に意識を合わせる。
引き寄せるのではなく――噛みつくように、奪う。
次の瞬間、黒が走った。
空間そのものに“口”が開くような感覚。
形は曖昧だが、確かに“喰らう意思”だけが明確に存在する。
ゴブリンの体が引き裂かれるように崩れ、そのまま黒に呑まれる。
悲鳴は途中で途切れ、肉も骨も魔力も、すべてが“咀嚼”されるように消えていく。
何も残らない。
ただ、内側に流れ込んでくる。
(……これか)
ルシアンは自分の手を見る。
わずかに魔力が増え、異質な感覚が混ざる。
ただ吸収するのではない。
分解し、取り込み、自分の一部に変える。
だが同時に理解する。
(限界がある)
あの時、ゼルキスに届かなかった理由。
器を超える存在には“喰らいつけない”。
干渉そのものが成立しない。
(なら、積み上げるだけだ)
静かに息を吐き、ルシアンは小さく呟いた。
「……喰収」
それで十分だった。
言葉が力の輪郭を固定する。
再び気配を探る。
今度はウルフが二体。
茂みを裂いて同時に飛び出してくる。
ルシアンは一歩踏み込み、一体を斬る。
血が飛ぶ。
もう一体が牙を剥いて迫る。
その瞬間、黒が広がる。
喰らう。
覆いかぶさるように、逃げ場を塞ぎ、丸ごと噛み砕く。
抵抗は一瞬で途切れ、その存在は“餌”として処理される。
静寂が戻る。
(制御できている)
負荷も問題ない。
ルシアンはそれを確認し、踵を返す。
野営地へ戻る頃には、何事もなかったように空気は静まっていた。
焚き火の光が揺れ、騎士たちは交代で休息を取っている。
アルベルトはまだ起きていた。
ルシアンに気づき、視線を向ける。
「……周囲は」
「問題ありません」
「そうか」
それだけで終わる。
余計なことは聞かない。
ただ必要な確認だけをする。
それが今の兄だった。
ルシアンは静かに腰を下ろし、炎を見つめる。
揺れる光の中で思考を整理する。
(次は北)
ドワーフの山岳地帯、その近くにある“もう一つの場所”。
そこに次の力がある。
そして邪神の欠片。
すべてが一本に繋がっている。
ルシアンは目を閉じる。
怒りも悲しみも消えたわけではない。
ただ、奥に沈んでいる。
今はそれでいい。
やることは決まっている。
夜は深く、炎だけが静かに揺れていた。




