第272話
第272話
アーカディアを出発してから数日。
ルシアンとエイルは西へ西へと進み続けていた。
移動速度は常識外れだった。
エイルの風魔法による補助。
そしてルシアン自身の身体能力。
休息を挟みながらも、一日で通常の冒険者が数日かけて進む距離を移動している。
途中で街へ立ち寄ることもなかった。
今は一刻を争う。
地裂獣ベヒモスを見失うわけにはいかなかった。
やがて二人は国境を越える。
魔族領。
人類領域とは違う荒々しい大地が広がっていた。
空気も少し違う。魔力の濃度が高く、魔物も人類領域より明らかに多い。
だが二人の目的は魔物ではない。
さらに数日、エイルの感知能力とヒューギルのカラスから送られてくる情報を頼りに追跡を続ける。
そして、ついに発見した。
「……いたわ」
エイルが足を止める。
ルシアンも前方へ視線を向けた。
遠く。
地平線の向こうで、巨大な影が動いている。
最初は山かと思った。
だが違う。
それは生物だった。
全長数百メートルの黒褐色の巨体。
歩くたびに地面が揺れ、木々が倒れ、岩が砕ける。
まるで大地そのものが移動しているようだった。
「……大きいですね」
ルシアンが呟く。
エイルも苦笑する。
「私も初めて見るけど、想像以上ね」
目の前にいるだけでわかる。
圧倒的な存在感と質量。
ただ歩いているだけなのに災害だった。
あれが十七厄災、地裂獣ベヒモス。
「どうする?」
エイルが尋ねる。
ルシアンは少し考えた。
そして。
「一応試してみます」
「対話?」
「知能はあるはずですから」
エイルも反対しなかった。
十七厄災は魔物ではある。
だが完全な獣ではない。
知性を持つ個体も存在する。
話が通じるならそれに越したことはない。
二人はベヒモスの進路上へ移動した。
そして、巨大な怪物の前へ立つ。
ベヒモスが足を止めた。
金色の瞳が二人を見下ろす。
それだけで空気が震えた。
まるで天災を前にしているようだった。
ルシアンは一歩前へ出る。
「地裂獣ベヒモス」
声を張る。
「聞こえていますか」
返事はない。
だが視線は向いている。
認識はしている。
「人類領域へ向かう理由を聞かせてください」
沈黙。
しばらく待つ。
だが返答はない。
エイルが眉をひそめた。
「聞こえてない?」
「いえ」
ルシアンは首を振る。
「聞こえています」
そう言った瞬間、ベヒモスの瞳が細められた。
そして、ゆっくりと前脚が持ち上がる。
次の瞬間。
轟音。
巨大な前脚が振り下ろされた。
「っ!」
エイルが即座に風を纏う。
二人はその場から飛び退いた。
大地が割れる。
数十メートル規模の亀裂が走った。
土砂が吹き飛び、森が消し飛ぶ。
ただの一撃。
それだけだった。
土煙の中、ルシアンは静かに立ち上がる。
「交渉決裂ですね」
「最初からそのつもりだったみたいね」
エイルも表情を引き締めた。
ベヒモスは再び歩き出そうとしていた。
目の前の二人を障害物程度にしか認識していない。
話し合う気も止まる気もない。
ただ進むだけ。
その先に何があろうとも。
「どうする?」
エイルが聞く。
ルシアンは前方を見据える。
巨大な怪物。十七厄災、地裂獣ベヒモス。
そして静かに答えた。
「戦います」
その言葉と同時に、ルシアンの瞳が僅かに鋭くなった。
災厄との戦いが始まる。




