第210話
第210話
闘技場の一角。
すでに人の姿はほとんどない。
夕暮れの光が、静かな石畳を赤く染めていた。
その中心に守護者ヒューギルが立っている。
二羽のカラスが、周囲を静かに飛び回っていた。
ルシアンはそんなヒューギルを見つめる。
先に口を開いたのは、ヒューギルだった。
「……すまんな」
低い声。
「急に呼び出して」
ルシアンは肩をすくめる。
「いえ」
「それで、何の用でしょうか」
ヒューギルが静かに目を細める。
「お前も大方の予想はついているだろうが」
一拍。
「アレス・グランツヴァルトと戦ってほしいのだ」
ルシアンは小さく息を吐く。
「そんなことだろうとは思いましたが、一応理由を聞いても?」
ヒューギルは空を見上げる。
飛ぶカラス。
そして、静かに語り始めた。
「昨今、魔物が活性化し、徐々にだが人類側の戦力は減ってきている。我ら守護者と共に最前線で戦う者たちも、ほんの少しずつだが削られてきている」
その声音には、長い年月を生きた者の重みがあった。
「いま、人類には強者が必要なのだ」
一拍。
「奴には才がある。このまま伸びていけば、人類側の大きな戦力になる」
ヒューギルの視線が遠くを見る。
「ルミナス騎士団の者たちも力を上げている。総長に至っては、私と同じ領域にたどり着いた」
ルシアンの目がわずかに細まる。
(……ヒューギルと同格)
それはつまり、人類最強格。
だが、ヒューギルは静かに続けた。
「だが、足りんのだ」
短い言葉、だが重い。
ルシアンも理解していた。
徐々に、本当に徐々にだが、均衡は崩れ始めている。
「だからこそ」
ルシアンが静かに言う。
「アレス・グランツヴァルトには、より強くなってもらう必要があると……」
「その通りだ」
ヒューギルは即答した。
ルシアンは少し考える。
「なら、戦うのが私である必要はないのでは?」
ヒューギルが答える。
「奴は、我ら守護者やルミナス騎士団の隊長たちとも手合わせをしている。そんな奴が、“いま以上の強敵との戦い”を望むと言ったのだ」
一拍。
「ならば、もう限られてくる」
ルシアンは静かに目を閉じる。
(……なるほど)
理解した。
ヒューギルは本気だ。
本気で、アレスをさらに上へ押し上げようとしている。
(情報によると、現状少しずつだが人類側が押され始めているのは事実)
(このまま均衡が崩れてしまうのはまずいか……)
数秒の沈黙。
やがて、ルシアンが口を開く。
「わかりました」
ヒューギルの目がわずかに動く。
「ただし」
「幾つか条件があります」
⸻
翌日。
守護者ヒューギルの部屋。
重厚な扉が開き、中へ入ってきたのは、アレス・グランツヴァルトだった。
「失礼します」
静かに礼をする。
ヒューギルは椅子に座ったまま口を開く。
「お前の望みを叶える手筈が整った」
アレスの目がわずかに見開かれる。
「三日後、学園内の特別修練場で行う」
一拍。
「ありがとうございます!」
アレスの声には、珍しく明確な高揚があった。
ヒューギルは静かに続ける。
「だが、相手側から幾つか条件がある」
アレスが真剣な顔になる。
「一つ、素性を詮索しないこと」
「二つ、今回の戦いについては口外しないこと」
「三つ」
そこで、ヒューギルがわずかに目を細めた。
「全力でかかってくること」
「殺しに来るくらいの覚悟でやらなければ、つまらんから相手をしないとのことだ」
一瞬。
アレスの口元がわずかに上がる。
「……面白い」
その目に宿るのは、明確な闘志。
そして、アレスが静かに問いかける。
「ヒューギル様から見て、私に勝ち目はありますか」
ヒューギルは即答した。
「お前のためにも言おう。いまのお前に勝ち目はない」
空気が静まる。
「お前が全力で殺しにかかろうとも、殺すことはおろか、まともな傷を負わせることもできないだろう」
アレスは黙って聞いている。
その瞳に恐れはない。
むしろ――
期待が強くなっていた。
ヒューギルが最後に告げる。
「だからこそ、先方の望み通り、全力で挑め」
アレスは深く頭を下げた。
「……はい」
そして、部屋を後にする。
扉が閉まる。
静寂。
ヒューギルは、一人静かに目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、昨日の会話。
⸻
「最後に」
ルシアンが静かに言った。
「貸し一つです」
⸻
ヒューギルは小さく息を吐く。
「……食えん男だ」
だが、その口元には。
わずかに笑みが浮かんでいた。




