第167話
第167話
レオンが踏み込む。
速い。
勇者の力を纏ったその一歩は、先ほどまでとは比べ物にならなかった。風を裂き、光弾の隙間を縫い、魔法が展開されるよりも早くレティシアの懐へと届く。
剣が閃く。
レティシアがとっさに身を捻る。
切っ先が頬を掠める。
「っ――」
浅い。
だが、確かに届いた。
観客席がどよめく。
「近づいた!」
「レティシアが押されてる……!」
ルシアンは静かに見ていた。
(……やはり、近距離では厳しい)
レティシアは魔法戦でこそ真価を発揮する。もちろん杖術も並の使い手以上ではある。だが、今のレオンの速度と圧に正面から付き合うのは悪手だった。
レオンが止まらない。
連撃。
一撃、二撃、三撃。
レティシアが杖で受ける。
だが重い。
これまでのような余裕はない。受け流しきれず、一歩、また一歩と後退する。
「……っ、ほんとに厄介ね!」
レティシアが歯噛みする。
火球を出す間もない。
風刃を放つ隙もない。
近づかれた時点で、彼女の得意な間合いは崩されている。
「……これは、とっておきを使うしかなさそうね」
レオンがさらに踏み込む。
剣が振り下ろされる。
レティシアが杖で受ける。
衝撃。
腕が痺れる。
そのまま横へ流し、無理やり距離を作ろうとする。
だが、すぐにレオンが詰める。
「逃がさない!」
「やってみなさい!」
言い返すが、その声には先ほどまでの余裕はなかった。
観客席の熱がさらに高まる。
「レオン、このまま押し切るか!?」
ルシアンの目が細くなる。
(……いや)
レティシアはまだ諦めていない。
むしろ、追い詰められたことで何かを決めたような気配があった。
その瞬間――
レティシアが大きく後ろへ跳んだ。
同時に懐から魔石を投げる。
「来なさい、ミラージュファミリア!」
光が弾ける。
その場に、半透明の獣たちが現れた。狼に似た形状。だが輪郭は曖昧で、実体と幻の中間のような不思議な存在。
使い魔。
それも即席の召喚ではない。かなり高度な部類だ。
レオンが一瞬だけ足を止める。
狼型の使い魔が飛びかかる。
レオンが剣を振るう。
一体を斬る。
だが、消えない。霧散したと思った次の瞬間、後方で再び輪郭を結ぶ。
「ちっ……!」
さらに二体、三体と迫る。
レオンが対処に追われる。
その間に――
レティシアが距離を取る。
そして杖を胸の前で構えた。
ルシアンの目が僅かに細くなる。
(……そういうことですか)
詠唱の構え。
しかも、普通の魔法よりも長い。
観客席のざわめきが変わる。
「詠唱……?」
「こんな場面で長文詠唱だと?」
レオンも気づく。
「まずい……!」
使い魔を斬り払いながら前へ出ようとする。
だが、使い魔たちがうまく進路を塞ぐ。
この程度の使い魔では、本来ならレオンは止まらない。
だが今のレティシアに必要なのは、勝つことではなく――数秒稼ぐことだけだった。
ルシアンは静かに、彼女の杖先に集まり始めた魔力を見る。
(……古いですね)
魔力の質が違う。
今の時代の魔法体系とは少し異なる、ねじれた流れ。洗練されているというより、もっと原始的で、重い。
レオンが使い魔を斬り裂く。
一歩、前へ。
だがレティシアの詠唱は止まらない。
その光景を見て、ルシアンの脳裏に一つの光景が過った。
――個別任務。
遺跡調査。
レティシアとシャロンが向かった、あの古代遺跡。
そこでは戦闘だけでなく、魔法的価値のある遺物も発見されていたはずだ。
そして――
ルシアンは推測する。
(あの時ですか)
場面が、静かに遡る。
◇
薄暗い石造りの回廊。
壁面には古びた術式が刻まれ、触れれば崩れそうなほど風化している。
レティシアは手にした灯りの魔法を揺らしながら、夢中でその一つ一つを見て回っていた。
「……すごい。これ、現行術式と構造が違う」
シャロンが後ろからため息をつく。
「お嬢様、そろそろ本来の確認作業を……」
「分かってるわよ」
口ではそう言いながらも、視線は完全に壁の紋様に奪われている。
その奥。
半ば崩れた祭壇のような場所に、それは置かれていた。
一冊の本。
埃を被り、見た目はただの古い書物にしか見えない。
「……これは?」
レティシアが手を伸ばす。
次の瞬間、彼女の目が見開かれた。
白紙ではない。
そこには確かに、文字が浮かんでいた。
流れるような古代文字。今ではほとんど失われた魔法式。
「……見える」
「何がです?」
シャロンが覗き込む。
「何って……魔法式よ」
だがシャロンは眉をひそめた。
「いえ、白紙にしか見えませんが」
同行していた調査班も首を傾げる。
「こっちにも何も書いてないようにしか……」
レティシアは黙り込む。
もう一度見る。
やはり見える。
細かな補助術式、召喚式、そして――とてつもなく高位な一節。
ぞくりとするほどの魔力の気配が、文字そのものに染みついていた。
「……持っていっても?」
レティシアが訊く。
調査班の面々は肩をすくめる。
「我々から見ても普通の白紙の本にしか見えない。だから別に構わないが……必要なのかね?」
「必要よ」
短く即答した。
シャロンがやや呆れた顔をする。
「また面倒なものを……」
「面倒だから面白いのよ」
その時のレティシアの笑みは、普段の上品な仮面が少し剥がれた、本来の彼女のものだった。
その後、彼女は夜ごとその魔導書を開いた。
最初は一行も理解できなかった。
次に一節。
そして断片的に、構造が読めるようになった。
完全な行使には程遠い。
だが――
使えないわけではない。
ほんの僅かでも、引き出せるなら。
今の自分の切り札になる。
◇
現在へ戻る。
レティシアの詠唱は続いていた。
使い魔がなおも時間を稼ぐ。
レオンが前へ出て、斬り払う。
だが間に合わない。
レティシアの杖先に、古い、重い光が集まり始めていた。
彼女の額に汗が滲む。
顔色も悪い。
これがどれだけの負荷か、見ているだけでも分かった。
「……そこまでして、止めたいんだな」
レオンが息を吐く。
「当たり前でしょう」
レティシアが答える。
「ここで負けるつもりはないもの」
そして最後の詠唱が紡がれる。
「古き理よ、眠れる星の残響よ。
閉ざされた時を越え、今ここにその威を示しなさい――」
空気が震える。
観客席が静まり返る。
ルシアンはその魔力の収束を見て、小さく目を細めた。
(……なるほど)
古代魔法。
未完成ながら、それでも十分すぎる威力を持つ。
レティシアが杖を振り下ろす。
「――アストラル・レクイエム!」
空が裂けたように見えた。
空に巨大な魔法陣が展開され、そこから光と闇の混ざった濁流が降り注ぐ。星屑のような光が無数に尾を引きながら落ち、その一つ一つが爆発的な衝撃を伴って地面を抉る。
レオンが顔を上げる。
「っ……!」
回避は無理。
そう判断した瞬間、剣を前に構える。
次の瞬間、奔流が直撃した。
轟音。
地面が砕ける。
砂煙と閃光が視界を埋める。
観客席から悲鳴にも似たどよめきが上がる。
「レオン!」
フィアナの声が響く。
ルシアンは静かに見ていた。
爆煙の向こう。
気配は――消えていない。
一方、レティシアは荒く息をつく。
杖を支えにしなければ立っていられないほど、魔力を消耗していた。
「……っ、さすがに……重いわね……」
古代魔法の反動。
未完成のまま無理やり引き出した当然の代償だった。
彼女の顔には、先ほどまでの余裕はない。
観客席も息を呑んでいた。
勝負は決まったのか。
そう思われた、その時。
爆煙の中で、影が動く。
ぐらり、と。
それでも確かに。
レオンが立ち上がる。
焼け焦げた服。
荒い呼吸。
膝は震え、全身にダメージが走っているのは明らかだった。
それでも――
剣はまだ、手の中にある。
レティシアの目が見開かれる。
「……うそ、でしょう……?」
ルシアンは静かに息を吐いた。
(……立ちましたか)
闘技場の空気が、再び張り詰める。
勝負は――
まだ終わっていなかった。




