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果てなき世界  作者: 影川明空人
第3章 学園1年目
126/185

第125話

いつもよりちょっと長いです

第125話 


 遠征六日目。


 フェルディア大森林の朝は、ひどく静かだった。


 夜のあいだに降りたらしい薄い霧が、木々の根元に低く漂っている。地面は湿り、落ち葉は重く沈んでいた。歩くたび、足元の感触が柔らかく変わる。昨日は探索を中心に回り、目立った戦闘はなかった。だが、その分だけ全員の消耗は少ない。最後の素材を狙うには、悪くない状態だった。


 レオン班は、野営地を片付け終えるとすぐに移動を開始していた。


 先頭はノエル。


 相変わらず足音がほとんどしない。細い背中は森の色に溶け込むようで、少し目を離せば見失ってしまいそうだった。その後ろをレオンとガイウスが進み、さらにフィアナとテオドール。ルシアンは全体が視界に入る位置を取り、最後方寄りにフリードとミレイが続く。


 しばらく歩いたところで、ガイウスが小さく息を吐いた。


「いよいよ最後か」


 レオンが前を見たまま頷く。


「ああ。アイアンホーンベアを倒せば終わりだ」


 テオドールが静かに言う。


「問題は、出てくれるかどうかだな」


 ノエルが立ち止まらないまま短く返す。


「……いる」


 全員の空気が変わる。


 レオンが声を落とす。


「近いのか?」


「……少し先」


 ノエルは目を閉じるようにわずかに顎を引いた。


「大きい。……重い」


 ルシアンは周囲の木々に視線を巡らせる。


 樹皮に残る傷。抉れた土。倒れた低木。確かに、ただの大型魔物ではない痕跡だった。しかも新しい。昨夜か、遅くとも一昨日のものだろう。


「間違いないでしょう」


 静かに言う。


「アイアンホーンベアです」


 ガイウスが片手剣の柄に手をかける。


「やっと見つけたな」


 レオンが呼吸を整える。


「位置は?」


 ノエルが前方を見据えたまま答える。


「……開けた場所」


「寝てはいない。動いてる」


 ルシアンは短く考えた。


「正面から入るのは避けた方がいいですね。突進の余地を与えます」


 レオンが頷く。


「どうする?」


「左右に散りましょう」


 自然な口調だった。


「ガイウスは正面。レオンは左から。ノエルは右。テオドールは後方から牽制。フィアナは支援と回復に専念してください」


 そこまで言ってから、ルシアンは少しだけ間を置く。


「アイアンホーンベアは正面からの力が強い反面、連続した方向転換は得意ではありません。動かし続ければ崩せます」


 レオンが小さく笑った。


「分かった。いつも通り頼む」


 ルシアンは頷くだけで返した。


 森を抜ける。


 その先には、やや開けた空間があった。倒木と大きな岩が散在し、地面は踏み荒らされている。中央付近で、巨大な影がゆっくりと身体を動かした。


 熊。


 だが、ただの熊ではない。


 筋肉の塊のような巨体。黒褐色の毛並み。頭部から斜め前方に突き出した二本の鋼のような角。肩の位置はガイウスよりも明らかに高く、一歩踏み出すたびに地面が沈む。


「……でかいな」


 ガイウスが低く呟く。


 ルシアンも静かに観察する。


(通常個体より大きい)


 筋肉の密度も、纏う圧も違う。呼吸の深さ、足運びの重さ、そのどれもが強個体であることを示していた。


(Aランクの中でも強い方だな)


 アイアンホーンベアがこちらに気づく。小さな赤い目が細まり、低い唸り声が喉の奥から漏れた。


 レオンが剣を抜く。


「行くぞ」


 次の瞬間、アイアンホーンベアが咆哮した。


 空気が震える。


 同時に、巨体とは思えない速度で踏み込んでくる。


「速い!」


 ガイウスが前に出る。盾を構える。正面衝突。


 轟音。


 大楯がきしむ。ガイウスの身体が大きく後ろへ押し込まれる。地面に靴跡が深く刻まれた。


「っ、重い!」


 レオンが左から斬り込む。斬撃が肩口を捉える。浅い。分厚い毛皮と筋肉で止められる。


 アイアンホーンベアが振り返りざまに腕を振るう。レオンが飛び退く。風圧だけで落ち葉が舞い上がった。


 右からノエルが飛び込む。短剣が脇腹をかすめる。浅いが、確かに入る。


 テオドールが後方から魔法を放つ。


「拘束は難しい、なら――足を止める!」


 地魔法。


 熊の足元が盛り上がる。だが巨体がそれを踏み砕く。


「硬いな……!」


 フィアナがすぐに支援魔法を重ねる。淡い光がレオンとガイウスを包み、身体能力がわずかに底上げされる。


 ルシアンは少し後方で全体を見ていた。


 不用意には前に出ない。


 今は、彼らの戦いだ。


「ガイウス、受け止め続ける必要はありません」


 自然に声をかける。


「真正面で固定するより、流してください」


 ガイウスが歯を食いしばりながら頷く。


「分かった!」


 次の突進。今度は盾を正面からぶつけず、わずかに角度をつける。アイアンホーンベアの力が横へ流れる。巨体がほんの少しだけ逸れた。


「今です」


 レオンが踏み込む。斬る。ノエルも逆側から入る。二方向からの攻撃。


 アイアンホーンベアが苛立たしげに吠える。後肢で地面を抉り、回転するように身体をひねる。尻尾と後ろ脚の一撃が広範囲に薙ぎ払われた。


 ノエルが飛び退く。


 レオンはぎりぎりで剣を合わせるが、弾き飛ばされるように後退する。


「っ……!」


 フィアナがすぐに回復魔法を送る。レオンの腕の痺れが和らぐ。


 テオドールが舌打ち混じりに言う。


「単純な巨体じゃない。動きまで速いのか」


 ルシアンは熊の呼吸を見る。


 荒くはない。


 まだ余力が大きい。


「レオン」


 声をかける。


「正面から深手を狙わない方がいいです。動きを重くしましょう」


 レオンが短く頷く。


「足か」


「はい。膝裏と関節」


 ガイウスが前に出る。ノエルが気配を消す。テオドールが風魔法で視界を乱す。フィアナが支援を維持する。


 連携が少しずつ形になっていく。


 アイアンホーンベアが再びガイウスへ突進する。ガイウスが受け流す。巨体が逸れた瞬間、レオンが左後肢を狙う。一撃。今度は浅くない。熊が唸る。


 右からノエルの短剣。膝裏に刺さる。即座に離脱。


 テオドールが雷撃を放つ。熊の動きが一瞬だけ止まる。


「効いてる!」


 ガイウスが叫ぶ。


 だが、次の瞬間。


 アイアンホーンベアが地面を叩いた。


 衝撃。


 足元が揺れる。


 レオンとガイウスの体勢が崩れる。ノエルが木の幹を蹴って距離を取る。テオドールの魔法が僅かに遅れる。


 熊がテオドールへ向き直る。


 まずい。


 そう思った瞬間、ルシアンが動いた。


 後方から斜めに踏み込み、テオドールの前に入る。片手を振るう。風の流れが一点に集まり、熊の視界の前で落ち葉と土を巻き上げた。ほんの一瞬、熊の意識が逸れる。


 その隙にルシアンはもう片手で地面に魔力を落とす。足元の土がわずかにずれ、熊の踏み込みが半拍だけ遅れた。


 ガイウスが割って入る。大楯で頭部を押し上げる。


「任せろ!」


 レオンが横から斬り込む。ノエルが脇腹を切る。


 ルシアンはすぐに下がった。


 前衛でも後衛でもない。だが、どちらが崩れても埋める位置。


 中衛。


 それが今のルシアンの立ち位置だった。


 戦闘は長引いた。


 アイアンホーンベアは強い。単純な力だけではない。体格に見合わぬ速さ、頑丈さ、そして戦い慣れしたような動き。Aランクでも上位寄り。その評価に疑いはなかった。


 だが、レオン班も確実に対応していた。


 ガイウスは正面を支え続ける。盾役として崩れない。


 レオンは前に出続ける。無理な深手は狙わず、確実に傷を蓄積させていく。


 ノエルは死角を突き、熊の意識を散らす。


 テオドールは魔法で動きを阻害し、隙を作る。


 フィアナは支援と回復を切らさない。


 そしてルシアンは、必要な時だけ前後へ動いた。


 ガイウスが押し込まれれば、盾をずらしやすい角度になるよう風で衝撃を逸らす。


 レオンの踏み込みが半歩足りなければ、地面をわずかに押し出すように魔力を流し、足場を作る。


 ノエルが離脱する際に追われそうになれば、視線を逸らすように光を反射させる。


 テオドールへ攻撃が向けば、前に入り、最小限の魔法で軌道だけを変える。


 どれも小さい。


 だが確実だった。


 誰にも「助けられた」と思わせない程度の補助。けれど、確かに危険は減っていた。


 戦いが続くうちに、アイアンホーンベアの動きは目に見えて鈍くなっていった。


 呼吸が荒くなる。


 前脚を踏み出すたび、地面に残る跡が深くなる。


 レオンが息を吐いた。


「……もう少しだ」


 ガイウスが盾を構え直す。


「ああ、押し切れる」


 テオドールが魔法陣を展開する。


「次で止める」


 フィアナが静かに頷く。


「支援を重ねます」


 ノエルが低く言う。


「……終わらせる」


 ルシアンは全体を見ながら、小さく頷いた。


(ここで決められる)


 ガイウスが前に出る。熊の突進を受け流す。レオンが左から入る。ノエルが逆側へ回る。テオドールの雷撃。フィアナの強化。


 形はできていた。


 あと一手。


 その時だった。


 空気が変わる。


 冷たいものが、背筋を撫でた。


 ノエルが最初に反応する。顔を上げる。


「……っ」


 レオンも気づく。


「何だ……?」


 ルシアンは即座に視線を森の奥へ向けた。


 気配。


 しかも一つではない。


 重い。


 深い。


 そして、明確に危険だった。


 木々の向こうから、三つの影が現れる。


 巨大な人型。


 黒い皮膚。異様に発達した筋肉。鈍い光を返す分厚い表皮。歪な角。その無骨な頭部と長い腕、岩のような拳は、人というより災厄そのものに見えた。


 黒皮のオーガ。


 三体。


 ルシアンの視界が、一瞬だけ揺れた。


 燃える街。


 崩れ落ちる家。


 血の匂い。


 怒号と悲鳴。


 そして、炎の向こうに立っていた、同じ黒い巨影。


(……同種)


 心臓が一拍だけ強く打つ。


 だが次の瞬間には、感情は押し込められていた。


 顔色一つ変えず、ルシアンは前を見る。


 アイアンホーンベアでさえ、わずかに警戒の唸りを漏らす。


「……冗談だろ」


 ガイウスの声が低くなる。


 テオドールの表情も消える。


「このタイミングで……」


 フィアナが小さく息を呑む。


 ノエルが一歩後ろへ下がる。


「……最悪」


 レオンが剣を握り直した。


 汗が一筋、顎を伝う。


 アイアンホーンベアをあと少しで倒せる。


 だが、その先にSランク三体。


 しかも――ルシアンは知っていた。


 この種はただ強いだけではない。膂力、耐久、戦闘本能、すべてが人を殺すために最適化されているような魔物だ。


 その瞬間――


 フリードが前に出た。


 静かだった。


 だが、その一歩だけで空気が変わる。


 目を開く。


 鋭い視線が、黒皮のオーガ三体を見据える。


 ミレイも同時に動く。すでに支援魔法の準備に入っていた。


 フリードが短く言う。


「……二体は俺が抑える」


 それは宣言ではなかった。


 事実を告げる声音だった。


 だが同時に、余裕がないことも分かる。


 倒すとは言わない。


 抑えるだけ。


 ミレイがすぐに支援魔法を重ねる。淡い光がフリードの身体を包み、魔力の流れが一段上がる。


 フリードが踏み込む。


 先頭の二体が応じるように前に出る。


 衝突。


 轟音。


 地面が揺れる。


 フリードの身体がわずかに沈む。押されている。だが止まらない。二体の拳を受け、流し、斬り込み、距離を取らせる。ミレイの支援がなければ成立しない戦いだった。


 レオンが息を呑む。


「じゃあ、残り一体は……」


 フリードは視線を前から外さないまま言った。


「お前たちで倒せ」


 その言葉は重かった。


 しかも、残る一体だけではない。


 まだアイアンホーンベアも生きている。


 二体同時。


 レオン班にとって最悪の状況だった。


 レオンが歯を食いしばる。


「……やるしかない」


 ガイウスが盾を構える。


「どっちからだ?」


 ルシアンが静かに答える。


「先にアイアンホーンベアを倒します」


 全員の視線が向く。


「このまま二体を相手にすると崩れます。あと少しで倒せる方を先に処理するべきです」


 冷静な判断だった。


 レオンが頷く。


「分かった」


 ノエルが低く言う。


「……オーガは?」


「私が見ます」


 ルシアンの声は静かだった。


「近づけさせません」


 それは大言壮語ではなかった。


 中衛として、前衛と後衛の間を埋める。その役割を、ただ確認しただけだった。


 黒皮のオーガが一歩、前へ出る。


 アイアンホーンベアも唸り、血走った目でこちらを睨む。


 森が、張り詰めていた。


 遠征最大の戦いが、今まさに始まろうとしていた。


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