第125話
いつもよりちょっと長いです
第125話
遠征六日目。
フェルディア大森林の朝は、ひどく静かだった。
夜のあいだに降りたらしい薄い霧が、木々の根元に低く漂っている。地面は湿り、落ち葉は重く沈んでいた。歩くたび、足元の感触が柔らかく変わる。昨日は探索を中心に回り、目立った戦闘はなかった。だが、その分だけ全員の消耗は少ない。最後の素材を狙うには、悪くない状態だった。
レオン班は、野営地を片付け終えるとすぐに移動を開始していた。
先頭はノエル。
相変わらず足音がほとんどしない。細い背中は森の色に溶け込むようで、少し目を離せば見失ってしまいそうだった。その後ろをレオンとガイウスが進み、さらにフィアナとテオドール。ルシアンは全体が視界に入る位置を取り、最後方寄りにフリードとミレイが続く。
しばらく歩いたところで、ガイウスが小さく息を吐いた。
「いよいよ最後か」
レオンが前を見たまま頷く。
「ああ。アイアンホーンベアを倒せば終わりだ」
テオドールが静かに言う。
「問題は、出てくれるかどうかだな」
ノエルが立ち止まらないまま短く返す。
「……いる」
全員の空気が変わる。
レオンが声を落とす。
「近いのか?」
「……少し先」
ノエルは目を閉じるようにわずかに顎を引いた。
「大きい。……重い」
ルシアンは周囲の木々に視線を巡らせる。
樹皮に残る傷。抉れた土。倒れた低木。確かに、ただの大型魔物ではない痕跡だった。しかも新しい。昨夜か、遅くとも一昨日のものだろう。
「間違いないでしょう」
静かに言う。
「アイアンホーンベアです」
ガイウスが片手剣の柄に手をかける。
「やっと見つけたな」
レオンが呼吸を整える。
「位置は?」
ノエルが前方を見据えたまま答える。
「……開けた場所」
「寝てはいない。動いてる」
ルシアンは短く考えた。
「正面から入るのは避けた方がいいですね。突進の余地を与えます」
レオンが頷く。
「どうする?」
「左右に散りましょう」
自然な口調だった。
「ガイウスは正面。レオンは左から。ノエルは右。テオドールは後方から牽制。フィアナは支援と回復に専念してください」
そこまで言ってから、ルシアンは少しだけ間を置く。
「アイアンホーンベアは正面からの力が強い反面、連続した方向転換は得意ではありません。動かし続ければ崩せます」
レオンが小さく笑った。
「分かった。いつも通り頼む」
ルシアンは頷くだけで返した。
森を抜ける。
その先には、やや開けた空間があった。倒木と大きな岩が散在し、地面は踏み荒らされている。中央付近で、巨大な影がゆっくりと身体を動かした。
熊。
だが、ただの熊ではない。
筋肉の塊のような巨体。黒褐色の毛並み。頭部から斜め前方に突き出した二本の鋼のような角。肩の位置はガイウスよりも明らかに高く、一歩踏み出すたびに地面が沈む。
「……でかいな」
ガイウスが低く呟く。
ルシアンも静かに観察する。
(通常個体より大きい)
筋肉の密度も、纏う圧も違う。呼吸の深さ、足運びの重さ、そのどれもが強個体であることを示していた。
(Aランクの中でも強い方だな)
アイアンホーンベアがこちらに気づく。小さな赤い目が細まり、低い唸り声が喉の奥から漏れた。
レオンが剣を抜く。
「行くぞ」
次の瞬間、アイアンホーンベアが咆哮した。
空気が震える。
同時に、巨体とは思えない速度で踏み込んでくる。
「速い!」
ガイウスが前に出る。盾を構える。正面衝突。
轟音。
大楯がきしむ。ガイウスの身体が大きく後ろへ押し込まれる。地面に靴跡が深く刻まれた。
「っ、重い!」
レオンが左から斬り込む。斬撃が肩口を捉える。浅い。分厚い毛皮と筋肉で止められる。
アイアンホーンベアが振り返りざまに腕を振るう。レオンが飛び退く。風圧だけで落ち葉が舞い上がった。
右からノエルが飛び込む。短剣が脇腹をかすめる。浅いが、確かに入る。
テオドールが後方から魔法を放つ。
「拘束は難しい、なら――足を止める!」
地魔法。
熊の足元が盛り上がる。だが巨体がそれを踏み砕く。
「硬いな……!」
フィアナがすぐに支援魔法を重ねる。淡い光がレオンとガイウスを包み、身体能力がわずかに底上げされる。
ルシアンは少し後方で全体を見ていた。
不用意には前に出ない。
今は、彼らの戦いだ。
「ガイウス、受け止め続ける必要はありません」
自然に声をかける。
「真正面で固定するより、流してください」
ガイウスが歯を食いしばりながら頷く。
「分かった!」
次の突進。今度は盾を正面からぶつけず、わずかに角度をつける。アイアンホーンベアの力が横へ流れる。巨体がほんの少しだけ逸れた。
「今です」
レオンが踏み込む。斬る。ノエルも逆側から入る。二方向からの攻撃。
アイアンホーンベアが苛立たしげに吠える。後肢で地面を抉り、回転するように身体をひねる。尻尾と後ろ脚の一撃が広範囲に薙ぎ払われた。
ノエルが飛び退く。
レオンはぎりぎりで剣を合わせるが、弾き飛ばされるように後退する。
「っ……!」
フィアナがすぐに回復魔法を送る。レオンの腕の痺れが和らぐ。
テオドールが舌打ち混じりに言う。
「単純な巨体じゃない。動きまで速いのか」
ルシアンは熊の呼吸を見る。
荒くはない。
まだ余力が大きい。
「レオン」
声をかける。
「正面から深手を狙わない方がいいです。動きを重くしましょう」
レオンが短く頷く。
「足か」
「はい。膝裏と関節」
ガイウスが前に出る。ノエルが気配を消す。テオドールが風魔法で視界を乱す。フィアナが支援を維持する。
連携が少しずつ形になっていく。
アイアンホーンベアが再びガイウスへ突進する。ガイウスが受け流す。巨体が逸れた瞬間、レオンが左後肢を狙う。一撃。今度は浅くない。熊が唸る。
右からノエルの短剣。膝裏に刺さる。即座に離脱。
テオドールが雷撃を放つ。熊の動きが一瞬だけ止まる。
「効いてる!」
ガイウスが叫ぶ。
だが、次の瞬間。
アイアンホーンベアが地面を叩いた。
衝撃。
足元が揺れる。
レオンとガイウスの体勢が崩れる。ノエルが木の幹を蹴って距離を取る。テオドールの魔法が僅かに遅れる。
熊がテオドールへ向き直る。
まずい。
そう思った瞬間、ルシアンが動いた。
後方から斜めに踏み込み、テオドールの前に入る。片手を振るう。風の流れが一点に集まり、熊の視界の前で落ち葉と土を巻き上げた。ほんの一瞬、熊の意識が逸れる。
その隙にルシアンはもう片手で地面に魔力を落とす。足元の土がわずかにずれ、熊の踏み込みが半拍だけ遅れた。
ガイウスが割って入る。大楯で頭部を押し上げる。
「任せろ!」
レオンが横から斬り込む。ノエルが脇腹を切る。
ルシアンはすぐに下がった。
前衛でも後衛でもない。だが、どちらが崩れても埋める位置。
中衛。
それが今のルシアンの立ち位置だった。
戦闘は長引いた。
アイアンホーンベアは強い。単純な力だけではない。体格に見合わぬ速さ、頑丈さ、そして戦い慣れしたような動き。Aランクでも上位寄り。その評価に疑いはなかった。
だが、レオン班も確実に対応していた。
ガイウスは正面を支え続ける。盾役として崩れない。
レオンは前に出続ける。無理な深手は狙わず、確実に傷を蓄積させていく。
ノエルは死角を突き、熊の意識を散らす。
テオドールは魔法で動きを阻害し、隙を作る。
フィアナは支援と回復を切らさない。
そしてルシアンは、必要な時だけ前後へ動いた。
ガイウスが押し込まれれば、盾をずらしやすい角度になるよう風で衝撃を逸らす。
レオンの踏み込みが半歩足りなければ、地面をわずかに押し出すように魔力を流し、足場を作る。
ノエルが離脱する際に追われそうになれば、視線を逸らすように光を反射させる。
テオドールへ攻撃が向けば、前に入り、最小限の魔法で軌道だけを変える。
どれも小さい。
だが確実だった。
誰にも「助けられた」と思わせない程度の補助。けれど、確かに危険は減っていた。
戦いが続くうちに、アイアンホーンベアの動きは目に見えて鈍くなっていった。
呼吸が荒くなる。
前脚を踏み出すたび、地面に残る跡が深くなる。
レオンが息を吐いた。
「……もう少しだ」
ガイウスが盾を構え直す。
「ああ、押し切れる」
テオドールが魔法陣を展開する。
「次で止める」
フィアナが静かに頷く。
「支援を重ねます」
ノエルが低く言う。
「……終わらせる」
ルシアンは全体を見ながら、小さく頷いた。
(ここで決められる)
ガイウスが前に出る。熊の突進を受け流す。レオンが左から入る。ノエルが逆側へ回る。テオドールの雷撃。フィアナの強化。
形はできていた。
あと一手。
その時だった。
空気が変わる。
冷たいものが、背筋を撫でた。
ノエルが最初に反応する。顔を上げる。
「……っ」
レオンも気づく。
「何だ……?」
ルシアンは即座に視線を森の奥へ向けた。
気配。
しかも一つではない。
重い。
深い。
そして、明確に危険だった。
木々の向こうから、三つの影が現れる。
巨大な人型。
黒い皮膚。異様に発達した筋肉。鈍い光を返す分厚い表皮。歪な角。その無骨な頭部と長い腕、岩のような拳は、人というより災厄そのものに見えた。
黒皮のオーガ。
三体。
ルシアンの視界が、一瞬だけ揺れた。
燃える街。
崩れ落ちる家。
血の匂い。
怒号と悲鳴。
そして、炎の向こうに立っていた、同じ黒い巨影。
(……同種)
心臓が一拍だけ強く打つ。
だが次の瞬間には、感情は押し込められていた。
顔色一つ変えず、ルシアンは前を見る。
アイアンホーンベアでさえ、わずかに警戒の唸りを漏らす。
「……冗談だろ」
ガイウスの声が低くなる。
テオドールの表情も消える。
「このタイミングで……」
フィアナが小さく息を呑む。
ノエルが一歩後ろへ下がる。
「……最悪」
レオンが剣を握り直した。
汗が一筋、顎を伝う。
アイアンホーンベアをあと少しで倒せる。
だが、その先にSランク三体。
しかも――ルシアンは知っていた。
この種はただ強いだけではない。膂力、耐久、戦闘本能、すべてが人を殺すために最適化されているような魔物だ。
その瞬間――
フリードが前に出た。
静かだった。
だが、その一歩だけで空気が変わる。
目を開く。
鋭い視線が、黒皮のオーガ三体を見据える。
ミレイも同時に動く。すでに支援魔法の準備に入っていた。
フリードが短く言う。
「……二体は俺が抑える」
それは宣言ではなかった。
事実を告げる声音だった。
だが同時に、余裕がないことも分かる。
倒すとは言わない。
抑えるだけ。
ミレイがすぐに支援魔法を重ねる。淡い光がフリードの身体を包み、魔力の流れが一段上がる。
フリードが踏み込む。
先頭の二体が応じるように前に出る。
衝突。
轟音。
地面が揺れる。
フリードの身体がわずかに沈む。押されている。だが止まらない。二体の拳を受け、流し、斬り込み、距離を取らせる。ミレイの支援がなければ成立しない戦いだった。
レオンが息を呑む。
「じゃあ、残り一体は……」
フリードは視線を前から外さないまま言った。
「お前たちで倒せ」
その言葉は重かった。
しかも、残る一体だけではない。
まだアイアンホーンベアも生きている。
二体同時。
レオン班にとって最悪の状況だった。
レオンが歯を食いしばる。
「……やるしかない」
ガイウスが盾を構える。
「どっちからだ?」
ルシアンが静かに答える。
「先にアイアンホーンベアを倒します」
全員の視線が向く。
「このまま二体を相手にすると崩れます。あと少しで倒せる方を先に処理するべきです」
冷静な判断だった。
レオンが頷く。
「分かった」
ノエルが低く言う。
「……オーガは?」
「私が見ます」
ルシアンの声は静かだった。
「近づけさせません」
それは大言壮語ではなかった。
中衛として、前衛と後衛の間を埋める。その役割を、ただ確認しただけだった。
黒皮のオーガが一歩、前へ出る。
アイアンホーンベアも唸り、血走った目でこちらを睨む。
森が、張り詰めていた。
遠征最大の戦いが、今まさに始まろうとしていた。




