第九話 …玲奈
『わたしを、水の下に…置いていかないで』
少女の声は、風に紛れるほど小さかった。
だが玲奈には、はっきりと聞こえていた。
林の奥に立つ白い少女は、こちらをじっと見つめている。
五歳頃の自分…?。
そうとしか思えない顔だった。
「……あなたは誰ですか」
玲奈が一歩前へ出る。
修司はとっさに腕を掴んだ。
「待て」
しかし少女は逃げない。
濡れた髪の間から覗く瞳は、怨霊のような黒さではなく、怯えた子供の目だった。
黒田が低く呟く。
「見えるのか?」
「見えます」
「俺には足跡しか見えない」
修司は息を呑んだ。
つまり、少女は玲奈にしか見えていない。
少女はゆっくりと林の奥へ後退した。
まるで「ついて来てください」と誘うように。
玲奈の身体が無意識に動く。
「待って!」
修司も懐中電灯を手に後を追った。
林の中は湿っており、腐葉土の匂いが濃い。
少女の姿は木々の間を断続的に現れては消える。
やがて小さな祠の前で立ち止まった。
苔むした石祠。
扉は半ば崩れ、内部には古びた木札が積まれている。
玲奈が近づくと、少女は祠の中を指差した。
そこには泥にまみれた小さな布袋が隠されていた。
修司が拾い上げる。
中から出てきたのは、古いお守りと、子供用の銀色の鈴だった。
玲奈の顔色が変わる。
「これ……私が持っていた鈴です」
「覚えているのか?」
「母が夏祭りで買ってくれたんです。でも、川に落ちた時になくしたと聞かされていました」
鈴の裏には、小さく名前が刻まれていた。
『れいな』
少女はそれを見届けると、ふっと微笑んだ。
次の瞬間、霧のように消えた。
林には風の音だけが残る。
玲奈は鈴を胸に抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
小屋へ戻った後、三人はお守りを調べた。
布は水に何度も晒されたのか、色が抜けている。
だが中から小さな紙片が出てきた。
そこには美沙子の字で、短くこう書かれていた。
『玲奈を返してもらった』
黒田が顔を上げる。
「返してもらった……?」
修司は紙を見つめながら考える。
もし玲奈が川に落ち、一度行方不明になっていたのだとすれば。
美沙子は本当に彼女を「取り戻した」のかもしれない。
だが、誰から?
玲奈は震える声で言った。
「母は、私を川から助けたんじゃなくて……誰かから奪い返したってことですか?」
答えは出ない。
しかし、美沙子が単なる被害者ではなく、最後まで娘を守るために戦っていたことだけは確かだった。
その夜。
修司は交代で見張りをすることにした。
黒田は疲労で眠り込み、玲奈は毛布に包まっている。
だが彼女はなかなか眠れない様子だった。
「少し外の空気を吸いたいです」
小屋の前に出ると、山の夜は驚くほど静かだった。
遠くで猪名川の流れる音がかすかに聞こえる。
玲奈は鈴を指先で転がしながら言った。
「相良さん、もし私が本当に“水の子”だったらどうしますか?」
修司は煙草をくわえかけ、やめた。
「何度も言うが、お前は玲奈だ。それ以上でも以下でもない」
「でも、あの女は私を呼んでいる」
玲奈は修司を見上げた。
月明かりに照らされた横顔は、不安と切なさが入り混じっている。
「怖いんです。自分の記憶が本物ではない気がして」
修司は彼女の肩に上着を掛けた。
「記憶なんて曖昧なものだ。重要なのは、今のお前が何を感じているかだろう」
玲奈は小さく笑った。
「少し意地悪で優しいですね」
「何だそれは」
「無理に励まさないけど、ちゃんと逃がさない感じです」
修司は苦笑した。
玲奈はそっと彼の腕に身体を寄せる。
冷えた指先が、静かに絡んできた。
修司は振り払わなかった。
山の闇の中で、二人の距離だけが少しずつ縮まっていく。
翌朝。
三人は設計図に記された「水神祠」へ向かう準備を始めた。
場所は猪名川町のさらに北、廃道となった林道の先にある。
黒田がリュックに懐中電灯やロープを詰めながら言う。
「そこには昔、洪水のたびに人柱を祀ったという記録がある」
玲奈は鈴を首から下げた。
「母が残したものなら、持って行きます」
修司は車のエンジンをかける。
曇天の下、山道へ向かう軽ワゴンの車内は妙に静かだった。
やがて舗装が途切れ、雑草に覆われた林道へ入る。
数十分進んだところで、道の先に鳥居が見えた。
朽ちた木製の鳥居。
その奥に、石段が山の中へと続いている。
そして鳥居の中央には、新しい紙札が掛けられていた。
白い札に、墨で大きくこう書かれている。
『玲奈を返せ』
三人が立ち尽くす中、山の奥から再び鈴の音が聞こえた。
チャリン……。
今度は一つではない。
幾つもの鈴が、まるで子供たちの行列のように、石段の上からゆっくりと近づいてきていた。




