第八話 消された意味
「その子の名前は――高槻玲奈だ」
川の流れる音だけが、しばらく耳に残った。
玲奈は言葉を失い、修司を見上げる。
「えっ? …… 私?」
黒田は濡れた服のまま、岩に寄りかかって荒い息を整えた。
「診療所の地下で見つけた古い名簿に載っていた。失踪児童の欄に、“高槻玲奈・五歳”と記載されていた」
「そんなはずない……」
玲奈は首を振る。
「私は母と普通に暮らしてた。小学校にも通ってた」
「俺も最初は見間違いだと思った。しかし名簿には“発見済”と赤字で追記されていた」
修司の胸に嫌な予感が広がる。
玲奈は五歳の頃の記憶を必死に探るように目を閉じた。
「……川に落ちたことがあります」
二人が彼女を見る。
「夏祭りの日。橋の近くで転んで、水に落ちて……気づいたら病院でした」
「それを誰から聞いた?」
「父です。『運よく助かった』と」
黒田は低く呟いた。
「その時、お前は一度“消えた”のかもしれない」
三人は一旦、猪名川町の外れにある黒田の隠れ家へ向かった。
古い林業作業小屋で、黒田はここ数日身を潜めていたらしい。
中には新聞の切り抜きやコピー資料が散乱していた。
修司が目を通すと、昭和五十六年の失踪記事の中に不自然な空白があることに気づく。
ある時期だけ、児童名が黒く塗り潰されているのだ。
黒田は古びた封筒を取り出した。
「役場の古い保管庫から入手した」
中には戸籍の写しが入っていた。
そこには確かに記されている。
高槻玲奈 昭和五十一年生
だが、その下に赤い訂正印とともに、
『死亡届提出 昭和五十六年六月二十三日』
という記載があった。
玲奈の手から紙が滑り落ちる。
「私……死んだことになってる……?」
修司は戸籍を見つめた。
その数か月後、別の欄に「同名児童の再登録」が行われている。
つまり一度死亡扱いとなった後、再び戸籍が作り直されていた。
通常ではあり得ない処理だった。
玲奈は椅子に座り込み、両手で顔を覆った。
「父は何を隠してたの……」
修司は静かに言う。
「おそらく、お前を守るためだ」
黒田が頷く。
「久代たちは“水の子”を選んでいた。洪水で生き残った子供を、女に捧げるための器として」
玲奈の肩が震える。
「じゃあ、私は……」
「まだ分からない」
修司は強い口調で遮った。
「少なくとも今ここにいるお前は、生きている人間だ」
その言葉に、玲奈はゆっくり顔を上げた。
涙で濡れた瞳が修司を見つめる。
「相良さんは……怖くないんですか? 私が普通じゃなかったら」
修司は苦笑した。
「俺は怪談を二十年追いかけてきた。でも本当に怖いのは、人間が人間を犠牲にする時だ」
玲奈の唇がかすかに震え、次の瞬間、彼女は修司の胸に抱きついた。
「……ありがとう」
その温もりを受け止めながら、修司は自分でも驚くほど強く彼女を守りたいと思っていることに気づいた。
夜が更ける頃、黒田は最後の資料を机に広げた。
それは久代診療所の地下水路の古い設計図だった。
水路は赤橋の真下を通り、さらに山中の「水神祠」へと続いている。
黒田が指で示す。
「久代はここに逃げたはずだ」
設計図の終点には、古びた文字でこう記されていた。
『水神祠 立入禁止』
玲奈が小さく呟く。
「母の手紙にあった“橋の下”の先……」
修司は頷いた。
「明日そこへ行く」
黒田は険しい顔をした。
「気をつけろ。久代はただの狂人じゃない。あの女を本気で“神”だと思っている」
その時だった。
小屋の外で、鈴の音が鳴った。
チャリン……。
三人の顔が凍りつく。
窓の外は真っ暗な山林だ。
だが確かに聞こえた。
チャリン……チャリン……。
黒田が懐中電灯を掴み、そっと窓際へ近づく。
外には誰もいない。
しかし、地面には濡れた足跡が点々と続いていた。
裸足の、小さな子供の足跡だった。
その足跡は小屋の裏手へ続いている。
玲奈が震える声で言う。
「また……子供の声が聞こえる」
耳を澄ますと、風の音に混じって微かな囁きが聞こえた。
『おねえちゃん……』
玲奈の顔から血の気が引く。
その呼び方には覚えがあった。
幼い頃、近所の子供たちにそう呼ばれていたからだ。
足跡の先を照らすと、林の奥に白いワンピースの少女が立っていた。
五歳ほどの年齢。
長い黒髪。
少女はゆっくりこちらを振り返る。
その顔を見た瞬間、玲奈は息を呑んだ。
少女の顔は、幼い頃の自分と瓜二つだった。
そして少女は、濡れた唇をわずかに動かして囁いた。
『わたしを、水の下に置いていかないで』




