第十話 水神祠
チャリン
チャリン……チャリン……。
鈴の音は、山の霧の中から幾重にも重なって響いてくる。
石段の上は白く霞み、木々の間を冷たい風が吹き抜けた。
玲奈は無意識に首の鈴を握り締める。
その小さな銀の鈴が、かすかに震えていた。
黒田が懐中電灯を向ける。
「何かが接近している」
霧の奥に、小さな影がいくつも揺れた。
子供の背丈ほどの影。
一つ、二つ、三つ……。
しかし石段を照らした瞬間、そこには誰もいない。
鈴の音だけが残る。
修司は鳥居をくぐった。
「行こう。ここで立ち止まっていても始まらない」
玲奈は深く息を吸い、彼の後に続く。
石段は想像以上に長かった。
両脇には苔むした石灯籠が並び、その多くが倒れている。
途中の灯籠には、水に溶けたような古い文字が刻まれていた。
『水子鎮魂』
『洪水供養』
『昭和五十六年六月』
玲奈の足が止まる。
「昭和五十六年……」
黒田が低く言った。
「失踪事件の年だ」
さらに上ると、石段の途中に小さな地蔵が並んでいた。
その首には、どれも鈴が掛けられている。
風もないのに、鈴が一斉に鳴った。
チャリン……。
玲奈の耳元で、子供の囁きが聞こえた。
『おねえちゃん、…寒いよ…』
彼女は思わず振り返る。
誰もいない。
だが修司は、玲奈の表情の変化に気づいていた。
「また聞こえたのか?」
玲奈は小さく頷く。
修司は何も言わず、そっと彼女の手を握った。
その大きな手の温もりに、玲奈の震えがわずかに収まる。
石段を登り切った先に、古びた社殿が現れた。
水神祠。
屋根は半ば崩れ、周囲には倒木が散乱している。
しかし中央の拝殿だけは不自然なほど新しく修繕されていた。
誰かが今も手入れしている形跡がある。
黒田が囁く。
「久代だ」
拝殿の扉には太い注連縄が張られ、その中央に赤い布が結ばれている。
玲奈の鈴が突然強く鳴った。
チャリン!
同時に、社殿の奥から低い読経のような声が聞こえてきた。
三人は顔を見合わせる。
修司がゆっくり扉に手を掛けた。
ギィ……。
湿った木の軋む音とともに、拝殿の内部が現れる。
そこには無数の人形が並べられていた。
古い市松人形。
ぬいぐるみ。
子供用の靴。
そして中央の祭壇には、水を張った大きな石鉢が置かれている。
石鉢の水面は、風もないのに波打っていた。
その向こうに、久代隆三が座っていた。
白い装束に身を包み、手には神楽鈴を持っている。
老人は三人を見ると、静かに笑った。
「来ると思っていたよ、玲奈」
玲奈は一歩前へ出る。
「母は……どこですか」
久代は石鉢を見つめたまま答える。
「高槻美沙子は、最後にここへ来た。お前を返してほしいと泣きながらな」
「返してほしい……?」
「お前は一度、水神に選ばれたのだ」
久代は鈴を鳴らした。
チャリン……。
石鉢の水面に波紋が広がる。
すると水の中に映像のようなものが浮かび上がった。
夏祭りの夜。
幼い玲奈が赤橋の上を走っている。
転倒。
川へ転落。
そして暗い水の中で、白い女が彼女を抱き上げていた。
玲奈が息を呑む。
「これ……本当に……」
久代の声が低く響く。
「女は自分の子を失い、正気を失っていた。しかしお前を見つけた時だけは違った。まるで我が子を抱くように、水底へ連れて行ったのだ」
水面の映像が変わる。
若い美沙子が川へ飛び込み、必死に玲奈を引き戻そうとしている。
その顔には、恐怖ではなく激しい母性が宿っていた。
『玲奈を返して!』
映像の中で、美沙子が叫ぶ。
白い女が苦しそうに顔を歪める。
そして幼い玲奈を岸へ押し返した。
水面はそこで暗転した。
玲奈の頬を涙が伝う。
「お母さん……」
修司は久代を睨みつけた。
「つまり、その女は玲奈を殺さなかった」
久代は頷く。
「だからこそ問題なのだ。選ばれた子が戻ってしまった」
老人の目が異様な光を帯びる。
「水神は今も玲奈を求めている。返さねば、村は滅ぶ」
黒田が怒鳴った。
「ふざけるな! お前が勝手に信じているだけだろ!」
久代は狂気じみた笑みを浮かべた。
「では見せてやろう」
老人が石鉢に鈴を沈めた瞬間、社殿全体が激しく揺れた。
ゴゴゴ……!
床下から大量の水音が響く。
石鉢の水が溢れ、床を濡らしていく。
そして拝殿の奥の扉が、ひとりでにゆっくりと開いた。
暗闇の中に、白い着物の女が立っていた。
長い黒髪。
青白い顔。
しかし今度は、その腕の中に小さな子供を抱いている。
女は玲奈を見つめ、静かに口を開いた。
『……返して』
その声は、これまで聞いたどの怨嗟よりも悲痛だった。




