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第十一話 名を呼ぶもの


『……返して』


白い女の声は、拝殿の奥から湿った風とともに流れてきた。


腕に抱かれた子供はぐったりとして動かない。


しかし、その小さな手首には銀色の鈴が巻かれていた。


玲奈の喉が震える。


「あの子……」


女は一歩、また一歩と近づいてくる。


床に溢れた水が、彼女の歩みに合わせて波打った。


久代は恍惚とした表情で両手を広げる。


「見ろ。これが水神だ。失われた母の悲しみそのものだ」


黒田が修司に囁く。


「何かおかしい。あの女、前より形がはっきりしている」


確かにそうだった。


これまで赤橋や洞窟で見た時よりも、今の女は異様なまでに現実感を帯びていた。


濡れた着物の皺まで見えるほど、輪郭は鮮明だった。


玲奈は震えながらも、女から目を逸らさなかった。


「あなたは……誰なんですか」


女の黒い瞳が揺れる。


そして、かすれた声で答えた。


『……まゆ』


久代が顔をしかめる。


「名を呼ぶな!」


老人が鈴を激しく振る。


チャリン! チャリン!


すると女は苦しそうに頭を抱え、抱いていた子供の姿が水煙のように揺らいだ。


修司はその瞬間を見逃さなかった。


「久代、お前が操っているのか」


「違う! 私は仕えているだけだ!」


久代の声には狂気と恐怖が入り混じっていた。


「女は洪水で子を失った。以来、この土地は水害に苦しめられてきた。供物を捧げることでしか鎮まらなかったのだ!」


玲奈が叫ぶ。


「だから子供たちを……!」


久代は目を逸らした。


その沈黙が、何よりの答えだった。


突然、拝殿の床板が大きく沈み込んだ。


バキッ!


修司はとっさに玲奈を引き寄せる。


床の中央が崩れ、黒い穴が口を開けた。


下から冷たい水が噴き上がる。


黒田が懐中電灯を向けると、穴の底には地下水路が流れていた。


そしてその岸辺に、白い骨が無数に散らばっている。


子供の頭蓋骨。


小さな腕の骨。


玲奈が息を呑み、口元を押さえた。


「そんな……」


久代は穴の前に跪き、震える声で呟く。


「これで村は守られてきた……」


修司は怒りを抑えきれなかった。


「守るために子供を殺したのか!」


その瞬間、白い女――まゆが久代を見た。


黒い瞳に、初めて明確な憎悪が宿る。


『ちがう』


水が激しく渦を巻いた。


『わたしは……そんなもの、ほしくなかった』


久代の顔が凍りつく。


「やめろ……!」


まゆの身体から大量の水が溢れ出し、拝殿全体を濡らしていく。


鈴が一斉に鳴り始めた。


チャリン! チャリン! チャリン!


その音に混じって、無数の子供の声が響く。


『かえして』


『さむい』


『おかあさん』


久代は耳を塞ぎ、狂ったように叫んだ。


「黙れ! 私は村を守ったんだ!」


すると地下水路の穴から、濡れた小さな手が何本も伸びてきた。


子供たちの霊だった。


彼らは久代の足を掴み、ゆっくりと穴の中へ引きずり込もうとする。


「やめろ! 助けてくれ!」


久代は修司に縋ろうとした。


だが修司は動かなかった。


黒田も黙って見ている。


玲奈だけが苦しそうに目を伏せた。


久代は最後まで鈴を握り締めたまま、子供たちの手に引かれて地下水路の闇へ沈んでいった。


絶叫が水音に飲み込まれる。


やがて静寂が戻った。


拝殿には、まゆだけが残っていた。


彼女の姿は先ほどより薄くなっている。


玲奈はゆっくり前へ進む。


修司は止めようとしたが、彼女の表情を見て言葉を飲み込んだ。


玲奈は首の鈴を外し、まゆの前に差し出した。


「あなたは……私を助けてくれたんですね」


まゆの瞳が揺れる。


玲奈は涙を流しながら続けた。


「子供を失ったのに、私を奪わなかった。母に返してくれた」


まゆの頬を、一筋の水が流れた。


それは涙のように見えた。


『……あのひとが、ないていた』


若い美沙子の姿が玲奈の脳裏に浮かぶ。


『だから、かえした』


玲奈は鈴をそっと石鉢の前に置いた。


「もう終わりにしましょう」


まゆは静かに目を閉じた。


すると拝殿を満たしていた水が、ゆっくりと引き始める。


鈴の音も止んだ。


彼女の身体は淡い水煙となり、夜気の中へ溶けていく。


最後に聞こえたのは、かすかな囁きだった。


『……ありがとう』


そして、白い女の姿は完全に消えた。


崩れかけた拝殿に、三人だけが残される。


雨上がりのような静かな空気が漂っていた。


玲奈はその場に膝をつき、静かに泣いた。


修司は何も言わず、彼女の肩を抱く。


黒田は地下水路の穴を見つめながら呟いた。


「終わった……のか?」


その時、社殿の奥から一枚の古びた写真が水に流されてきた。


修司が拾い上げる。


そこには若い美沙子と、五歳の玲奈が写っていた。


写真の裏には、母の字でこう記されている。


『玲奈へ 生きて帰ってきてくれてありがとう』


玲奈は写真を胸に抱きしめ、声を殺して泣き続けた。


修司はその涙を見守りながら、自分の中で何かが静かに変わっていくのを感じていた。


呪いを追って始まった取材は、いつの間にか、一人の女性の人生そのものを守りたいという願いへと変わっていたのであった。



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