終話 宝塚の灯
水神祠の事件から一か月が過ぎていた。
猪名川町では、山中の廃祠から白骨遺体が発見されたというニュースが、小さく報じられた。
しかし記事の内容は簡素なものだった。
「昭和期のものとみられる遺骨を発見」
それだけである。
子供たちの名前も、久代診療所の存在も、公に語られることはなかった。
黒田は警察へ資料を提出したものの、「すべてが公表されるとは限らない」と苦笑混じりに語った。
「村の連中は、今でも“昔のこと”にしたがってる」
それでも、地下水路から発見された遺骨によって、少なくとも失踪した子供たちの存在は否定できないものとなった。
長い年月の中で封じられていた真実が、ようやく地上へと戻ってきたのである。
修司は宝塚のマンションに戻っていた。
窓の外には武庫川の流れと、夕暮れに灯る街の明かりが広がっている。
かつてであれば、取材を終えれば一人で酒を飲み、次の仕事へと逃げ込んでいただろう。
しかし、今は違っていた。
キッチンから、味噌汁の香りが漂ってくる。
「相良さん、また原稿を書きながら寝ていませんか?」
玲奈がエプロン姿で顔を覗かせた。
修司は苦笑する。
「まだ寝てない」
「目が半分閉じていますよ」
彼女はテーブルに湯気の立つ茶碗を並べた。
水神祠から戻って以来、玲奈はしばらく修司の部屋に身を寄せている。
父親との関係に向き合う必要があり、過去を整理する時間が必要だったのだ。
それでも彼女の表情は、初めて出会った夜よりも確かに柔らかくなっていた。
夕食の後、玲奈は窓際に立った。
宝塚大劇場の方角に、淡い灯りが見える。
「不思議ですね」
「何がだ?」
「昔は、夜になると水の音が聞こえる気がして、怖かったんです」
玲奈は首元の鈴にそっと触れた。
あの銀色の鈴は、今も彼女の手元にある。
本来は水神祠に残したはずのものだったが、帰路の石段の下で再び見つかったのだ。
まるで、まゆが返してくれたかのように。
「今は?」
修司が問いかける。
玲奈は静かに微笑んだ。
「もう怖くありません。……母が守ってくれていたのだと、今は思えるからです」
修司は彼女の横顔を見つめた。
強さの奥に、時折ひどく脆い影を宿している。
十三歳という年齢差があるにもかかわらず、共に過ごす時間はすでに自然なものとなっていた。
もはや以前の一人の生活には戻れないのではないかと、修司は感じ始めていた。
玲奈がふと振り返る。
「相良さん」
「なんだ?」
「取材、終わってしまいましたね」
修司は窓の外へ視線を向けた。
「記事にはするつもりだ」
「書けるんですか?」
「すべてをそのままは…難しいだろうな。信じてもらえない部分も多い」
白い女。
水神。
地下水路で聞いた子供たちの声。
それらをそのまま記せば、単なる怪談として消費される可能性が高い。
だからこそ修司は決めていた。
これは“呪いの物語”ではなく、“母親たちが子供を守ろうとした記録”として書くべきだと。
玲奈はそんな彼を見つめ、静かに微笑んだ。
「きっと、お母さんも喜びます」
その夜。
修司は机に向かい、原稿のタイトルを入力した。
『猪名川・赤橋失踪事件――封じられた昭和の記録』
キーボードを打つ指が、一瞬止まる。
背後から、玲奈がそっと肩に手を置いた。
「無理はしないでください」
修司はその手に、自らの手を重ねた。
その温もりは確かな現実だった。
怨念でも幻でもない。
生きている人間の温度である。
修司は椅子を回し、玲奈を見上げた。
「……なあ」
「はい?」
「この件が片付いたら、ちゃんと考えたいことがある」
玲奈は一瞬驚いた表情を見せた後、頬を赤らめた。
「それ、今言うのはずるいです」
「まあ、少しはSだからな」
玲奈は思わず吹き出した。
「自分で言うんですね」
笑い声が部屋に広がる。
その穏やかな空気の中で、修司はようやく気づいた。
長い間、自分は過去の失敗に縛られて生きてきたのだと。
しかし玲奈と出会い、失踪事件の真相に触れたことで、わずかではあるが前へ進む感覚を取り戻しつつあった。
深夜。
原稿を書き終えた修司が窓を開けると、夏の終わりの風が部屋へと流れ込んだ。
遠くで武庫川の水音が響く。
その音に混じって、一瞬だけ鈴の音が聞こえた気がした。
チャリン……。
振り返ると、玲奈はソファで静かに眠っている。
首元の鈴は、月明かりを受けてかすかに光っていた。
それ以上、何の異変も起こることはなかった。
白い女――まゆは、もう現れないのだろう。
失われた子供たちとともに、長く続いた怨念は静かに水底へと還っていった。
修司は静かに窓を閉めた。
宝塚の街には、穏やかな夜の灯りが広がっている。
その光の中で、彼は初めて「明日」というものを、わずかに前向きに受け止められる気がしていた。




