後日譚 川西の雨
十月の終わり、川西の空には細かな雨が降っていた。
修司が掲載誌を閉じた時、部屋にはコーヒーの香りが漂っていた。
『猪名川・赤橋失踪事件――封じられた昭和の記録』
記事は予想以上の反響を呼んだ。
「実在の事件ではないか」
「猪名川町に本当にそんな橋があるのか」
様々な憶測が飛び交ったが、修司はそれ以上の取材依頼をすべて断った。
あれはもう、面白半分で掘り返していい話ではない。
玲奈も同じ考えだった。
彼女は少しずつカウンセラーの仕事を再開し、宝塚と川西を行き来する日々を送っている。
そして今では、修司のマンションに泊まることの方が多くなっていた。
「難しい顔をしていますね」
玲奈が後ろから覗き込む。
修司は苦笑した。
「記事の感想を読んでただけだ」
「怖がらせすぎました?」
「むしろ“続きが読みたい”ばかりだ」
玲奈は小さく笑い、テーブルにマグカップを置いた。
雨音が窓を叩く。
その静かな時間が、修司には妙に愛おしかった。
だが、その夜。
一本の電話がかかってきた。
非通知。
修司は眉をひそめながら受話ボタンを押した。
「……相良です」
しばらく無音。
そして、年配の女の声が聞こえた。
『赤橋のことを書いた人ですか』
修司の背筋がわずかに緊張する。
「あなたは?」
『私は猪名川町の者です。記事を読んで、どうしても伝えたいことがある』
雨音が強くなる。
女は低い声で続けた。
『久代家には、もう一人子供がいたんです』
修司は思わず身を乗り出した。
「もう一人?」
『昭和五十六年の洪水の日に、行方不明になった娘です』
玲奈が不安そうにこちらを見る。
女の声は震えていた。
『その子の名前は、久代真由――まゆと言いました』
修司と玲奈は顔を見合わせた。
水神祠で聞いた、あの白い女の名。
『村では、その子も川に流されたと言われています。でも遺体は見つからなかった』
電話の向こうで、女が小さく息を呑む。
『そして、洪水の後から赤橋で白い女が目撃されるようになったんです』
修司は静かに目を閉じた。
まゆは最初から「水神」などではなかった。
洪水で子供を失い、自らも命を落とした、一人の母親だったのだ。
その悲しみを、久代家の人間たちが勝手に“神”へと作り替えてしまった。
『記事を書いてくれてありがとう』
女は最後にそう言って電話を切った。
玲奈はしばらく黙っていた。
そして窓の外の雨を見つめながら呟く。
「まゆさんも、被害者だったんですね」
修司は頷いた。
「たぶんな」
玲奈は首元の鈴に触れた。
チャリン、と小さな音が鳴る。
「母は、私だけじゃなくて、まゆさんも救いたかったのかもしれません」
修司はその言葉に、胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。
失われた命は戻らない。
だが、誰かがその痛みを忘れずにいることで、救われるものもあるのかもしれない。
雨は夜更けまで降り続いた。
玲奈はソファではなく、自然に修司の隣へ座っていた。
二人の肩が触れ合う。
言葉は少ない。
それでも、不思議と孤独ではなかった。
修司はそっと玲奈の手を握る。
玲奈も静かに握り返した。
窓の外では、武庫川の流れが雨に煙っている。
その水音の奥で、ほんの一瞬だけ、遠くから鈴の音が聞こえた気がした。
チャリン……。
だが、それは恐ろしい音ではなかった。
まるで、誰かが静かに別れを告げているような、優しい響きだった。
玲奈は目を閉じ、小さく微笑む。
「……もう、大丈夫ですね」
修司は彼女の手を握ったまま、静かに頷いた。
雨の宝塚には、穏やかな夜の灯りが滲んでいた。
そしてその灯りの中で、二人の新しい時間が、静かに始まろうとしていたのである。
― 完結 ―




