第六話 生きている者
『橋の下に、まだ生きてる奴がいる』
黒田の声はそこで途切れた。
ザーッという水音だけが数秒続き、通話は切断された。
修司はすぐに掛け直した。
だが返ってきたのは「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていません」という機械的なアナウンスだけだった。
玲奈が青ざめた顔で尋ねる。
「黒田さん……本当に生きてるんですか?」
「少なくとも、今の声は録音じゃなかった」
修司は通話時間を確認する。
23時17分。着信元番号は非通知。
だが通話記録には確かに残っていた。
幻覚ではない。
そして黒田は「まだ生きている奴がいる」と言った。
霊ではなく、人間だ。
修司は地図を広げた。
赤橋周辺の地形。
川の流れ。
旧診療所との位置関係。
美沙子のテープにあった「橋の下の洞窟」という言葉が頭から離れない。
「明日、橋の下を調べる」
玲奈は不安そうに眉を寄せた。
「危険です」
「黒田がそこにいる可能性がある」
玲奈はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「私も行きます」
深夜一時。
玲奈は帰ると言いながら、結局修司の部屋に残った。
一人になるのが怖いのだろう。
修司は毛布を渡し、自分はソファに座った。
だが眠気は来ない。
カセットテープの内容が頭の中で繰り返される。
「村の有力者が関わっている」
もし本当なら、昭和五十六年の失踪事件は単なる怪談ではなく、集団的な隠蔽だったことになる。
そして今、その秘密を知った者が次々と狙われている。
黒田。
美沙子。
そしておそらく――玲奈も。
午前三時過ぎ。
修司が資料を整理していると、背後で小さな物音がした。
振り返ると、玲奈が悪夢にうなされていた。
「やめて……水の中は嫌……」
額には汗が滲んでいる。
修司はためらったが、そっと肩に触れた。
「玲奈」
彼女はびくっと震え、目を開けた。
焦点の合わない瞳が、数秒後に修司を認識する。
「……ごめんなさい」
「夢か?」
玲奈は頷いた。
「子供の頃、何度も見た夢なんです」
彼女は毛布を握り締めた。
「暗い水の中で、女の人が私を引っ張るんです。“あなたは残された子”って」
修司は胸の奥に嫌な引っ掛かりを覚えた。
「その夢、いつから見てる?」
「母がいなくなった後からずっと」
玲奈は震える声で続ける。
「でも最近、はっきりしてきたんです。女の人の顔が、母じゃないって」
その言葉に、部屋の空気が一段冷えた気がした。
翌朝。
二人は宝塚から川西を抜け、再び猪名川町へ向かった。
空は曇っているが、雨は降っていない。
赤橋の近くに車を停め、川沿いの獣道を下っていく。
増水は収まっていた。
岩場を慎重に進むと、橋の真下に黒い裂け目のような穴が見えた。
洞窟だった。
高さは一メートル半ほど。
中から冷たい風が吹き出している。
「ここか……」
修司は懐中電灯を点けた。
洞窟の壁は水に削られ、奥へ細長く続いている。
玲奈が修司の服の裾を掴む。
「変な匂いがする」
確かに、湿った土と腐った藻の匂いに混じって、微かに薬品のような臭気が漂っていた。
二人は身をかがめて洞窟へ入った。
奥へ進むにつれ、水音が大きくなる。
やがて小さな空洞に出た。
そこには古い木箱や錆びた缶が積まれていた。
昭和時代のものらしい。
そして壁際に、朽ちかけた祭壇のようなものがあった。
中央には子供用の赤い靴が一足。
玲奈が息を呑む。
「これ……新聞に載っていた写真と同じ……」
失踪した児童の遺留品だった。
修司が祭壇を照らすと、奥の岩壁に新しい傷があることに気づいた。
誰かが最近ここを掘った痕跡だ。
さらにその近くに、ペットボトルと非常食の空袋が落ちていた。
「最近のものだ」
つまり、この洞窟には現在も誰かが出入りしている。
その瞬間、奥の暗闇から微かな咳払いが聞こえた。
二人は凍りつく。
懐中電灯を向ける。
岩陰から、痩せた男がゆっくり姿を現した。
髭だらけで、服は泥と水で汚れている。
だがその顔を見た瞬間、修司は叫んだ。
「黒田!」
黒田慎一だった。
頬はこけ、目の下には深い隈ができている。
数日どころか、何週間もまともに眠っていないような姿だった。
玲奈が駆け寄ろうとすると、黒田が鋭く制した。
「来るな!」
その声には切迫した恐怖が滲んでいた。
「ここに長くいると、あいつに見つかる」
修司は黒田の肩を掴んだ。
「何があった?」
黒田は震える手で洞窟のさらに奥を指差した。
「あの女は霊だけじゃない。誰かが利用してる」
「誰が?」
黒田の唇が震える。
「久代診療所の元院長の息子だ。まだ生きてる。七十を超えてるが、今もこの洞窟で“儀式”を続けてる」
玲奈の顔から血の気が引いた。
「儀式……?」
黒田は怯えた目で暗闇を見つめる。
「子供を水に捧げれば、洪水の女は村を守る――そう信じてるんだ」
その時、洞窟の奥から**チャリン……**と鈴の音が響いた。
三人は同時に振り向く。
暗闇の向こうで、誰かがゆっくりこちらへ歩いてくる。
鈴の音は一歩ごとに近づいていた。
チャリン……。
チャリン……。
そして、しわがれた老人の声が洞窟に響いた。
『また……新しい娘を連れてきたのか』




