表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/13

第五話 水底の記憶


床に広がった水は、地下室の隅から湧き出していた。


古いコンクリートの亀裂から黒い水が染み出し、まるで生き物のように二人の足元へ這い寄ってくる。


玲奈は顔を強張らせたまま、白い女から目を離せなかった。


「お母さん……なの?」


女は答えない。


ただ濡れた髪の奥で、黒い瞳だけが異様な光を帯びていた。


修司は玲奈を背後へ引き寄せる。


「違う。近づくな」


その瞬間、女が立ち上がった。


水滴が床へ落ちる音が、地下室に異様なほど大きく響く。


『玲奈……』


今度の声は、少しだけ優しかった。


母親が子を呼ぶような響き。


玲奈の身体がわずかに前へ傾く。


催眠にかかったようだった。


修司は彼女の肩を強く掴む。


「しっかりしろ!」


玲奈がはっと息を呑む。


次の瞬間、白い女の顔がぐしゃりと歪んだ。


頬が裂け、水と泥がこぼれ落ちる。


そして女は、人間とは思えない速さで地下室の奥へ這うように消えた。


照明が完全に落ちる。


闇。


玲奈の荒い呼吸だけが聞こえる。


修司は懐中電灯を点けた。


地下室にはもう誰もいなかった。


だが床には濡れた足跡が残っている。


それは壁際の古いロッカーへ続いていた。


ロッカーの扉は内側から膨らんでいた。


まるで何かが押し込められているように。


修司がゆっくり取っ手を引く。


ギィ……。


中から大量の古い書類が崩れ落ちた。


その最下部に、防水袋に入った封筒があった。


表には震える字でこう書かれている。


『玲奈へ もし私に何かあったら』


玲奈の指が震えた。


「母の字です……」


封を開く。


中には数枚の便箋と、古いカセットテープが入っていた。


便箋にはこう記されていた。


玲奈へ


赤橋で起きていることは事故ではありません。


診療所の地下で、子供たちが隠されていました。


誰かが川へ連れて行っている。


私はそれを見てしまった。


もし私が帰らなかったら、橋の下を調べて。


でも、一人では行ってはいけない。


玲奈は唇を噛み締めた。


目には涙が滲んでいる。


修司は最後の一文に注目する。


『連れて行っている』


つまり犯人がいた。


少なくとも最初は、人間の事件だったのだ。


「カセットを再生できれば、もっと分かるかもしれない」


地下室にはもう長くいたくなかった。


二人は急いで階段を上がり、廃診療所を後にした。


外へ出ると、夕方の空気が妙に温かく感じられた。


生きている場所へ戻ってきた――そんな感覚だった。


川西市街へ戻る途中、玲奈はほとんど口を開かなかった。


車内に流れるのはエンジン音だけ。


やがて彼女が小さく言った。


「母は、私を守ろうとしていたんですね」


修司はハンドルを握ったまま頷く。


「たぶんな」


「でも、どうして今になって……」


その問いに答えられる者はいない。


ただ一つ確かなのは、黒田がこの手紙に辿り着いていた可能性が高いということだ。


そして、その直後に失踪した。


夜。


二人は宝塚駅近くの修司の仕事部屋へ移動した。


古いマンションの一室で、壁には取材資料と怪談本が山積みになっている。


玲奈は少しだけ安心したように周囲を見回した。


「意外と普通の部屋なんですね」


「もっと呪術道具でもあると思ったか?」


「少しだけ」


彼女が初めて自然に笑った。


その笑顔を見て、修司は胸の奥がわずかに軽くなるのを感じた。


十三歳差など関係なく、彼女といる時間が少しずつ特別なものになり始めていた。


修司は古いラジカセを棚から引っ張り出した。


まだ動く。


カセットテープを入れ、再生ボタンを押す。


しばらくザーッというノイズ。


そして女の声が流れ始めた。


玲奈の母、美沙子の声だった。


『……録音しています。六月二十日。診療所の地下で、子供たちを見つけました』


ノイズ。


『院長の久代先生だけじゃない。村の有力者が関わっている』


修司と玲奈は顔を見合わせる。


『子供たちは“水の子”と呼ばれていた』


『橋の下の洞窟へ連れて行かれる』


『昔、洪水で子供を失った女がいて、その霊を鎮めるために――』


そこでテープが大きく乱れた。


ガガガッという異音。


そして遠くから、男たちの怒鳴り声が聞こえる。


『高槻先生、やめろ!』


美沙子の荒い息。


『玲奈を……玲奈だけは……!』


突然、激しい水音。


悲鳴。


そして最後に、低い女の声が重なった。


『子どもを……返して……』


テープはそこで途切れた。


部屋に沈黙が落ちる。


玲奈は肩を震わせながら、修司の胸に額を押し当てた。


「母は……殺されたんですね」


修司はゆっくり彼女の背に手を置いた。


その細い身体は、今にも壊れそうなほど震えていた。


「まだ断定はできない。でも事故じゃない」


玲奈は修司のシャツをぎゅっと掴む。


「怖い……でも、真実を知りたい」


修司は彼女を抱き寄せたまま、窓の外を見た。


宝塚の夜景が静かに瞬いている。


だがその平穏の下で、四十五年前の失踪事件と、今なお続く呪いが確かにつながり始めていた。


その時だった。


机の上に置いた黒田のスマホが、再び震えた。


今度は着信だった。


画面には、あり得ない名前が表示されている。


『黒田慎一』


修司は玲奈を見つめ、ゆっくり通話ボタンを押した。


受話口から聞こえてきたのは、掠れた黒田の声だった。


『……修司、逃げろ』


その直後、背後で女の笑い声が重なった。


そして黒田は、最後にこう囁いた。


『橋の下に、まだ生きてる奴がいる』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ