第四話 地下室の声
コツ……コツ……コツ……。
足音は、確実にこちらへ近づいていた。
廊下の奥は薄暗く、割れた窓から差し込む灰色の光が床にまだら模様を作っている。
玲奈が修司の背中にぴたりと寄り添った。
「相良さん……」
「静かに」
修司は懐中電灯を構えたまま、診察室の扉の陰に身を寄せる。
足音は廊下の角で止まった。
息を殺す。
次の瞬間、白いものが視界を横切った。
修司は反射的に飛び出した。
「誰だ!」
だが廊下には誰もいない。
ただ、床に濡れた足跡だけが残っていた。
裸足だった。
小さな女の足跡。
それが廊下の突き当たりへ続いている。
足跡を追うと、古い処置室に辿り着いた。
錆びた器具。
倒れた点滴台。
そして床の隅に、不自然にずれた鉄板があった。
修司が懐中電灯で照らす。
鉄板の隙間から、冷たい空気が流れ出していた。
「地下……」
二人で鉄板を持ち上げると、下へ続く狭い階段が現れた。
湿った土の匂いが鼻を刺す。
玲奈の顔色がさらに青ざめる。
「こんなの、図面には無かったはずです」
「診療所の地下倉庫かもしれない」
そう言いながらも、修司自身、胸の奥に嫌な予感を感じていた。
階段を降りるたび、空気が重くなる。
やがて地下室に辿り着いた。
そこは倉庫というより、簡易の病室のようだった。
古いベッドが三台。
壁には子供の身長を測ったような鉛筆の線。
そして奥の棚に、埃をかぶったカルテ箱が並んでいる。
玲奈が震える声で言った。
「子供たちの失踪と関係があるんでしょうか」
修司はカルテを一冊取り出した。
昭和五十六年六月。
患者名の欄には、失踪した児童の名前が記されている。
さらに別のカルテには――
「高槻美沙子 同伴者」
玲奈の指が止まった。
「母の名前……」
ページをめくる。
診察内容の欄には、通常の医療記録ではなく、奇妙な文が手書きされていた。
『夜になると橋の下から子供の泣き声が聞こえる』
『水に近づくなと何度も言われる』
『あの女は、自分の子供を探している』
玲奈が口元を押さえる。
「母も……調べていたんだ」
その時だった。
地下室の奥から、かすかな泣き声が聞こえた。
子供の声だった。
「おかあさん……」
玲奈の肩が大きく震える。
声は、さらに奥の暗闇から続いている。
修司は懐中電灯を向けた。
地下室の壁の一部が崩れ、その向こうに横穴が口を開けていた。
まるで古い防空壕のような空間。
泣き声はそこから聞こえてくる。
二人は慎重に横穴へ入った。
天井は低く、湿った土が靴にまとわりつく。
数メートル進んだところで、玲奈が突然立ち止まった。
「待って」
彼女は壁を照らした。
そこには無数の爪痕が刻まれていた。
そして、その中央に血のような赤い文字。
『みずのした』
修司の背筋が粟立つ。
さらに奥へ進むと、小さな空間に出た。
床には古い玩具や子供用の靴が散乱している。
失踪した児童のものなのかもしれない。
そして壁際に、一体の人形が座っていた。
濡れたように黒ずんだ日本人形。
玲奈が懐中電灯を向けた瞬間、人形の首がカクンとこちらを向いた。
「っ!」
玲奈が修司にしがみつく。
同時に、横穴の入り口の方から**バタン!**という音が響いた。
地下室へ戻る扉が閉まったのだ。
修司は急いで引き返す。
だが地下室に戻った時、そこには誰もいないはずなのに、ベッドの一つに白い女が座っていた。
長い黒髪が顔を覆い、全身から水が滴っている。
玲奈が凍りついた。
女はゆっくりと顔を上げた。
その顔を見た瞬間、玲奈の喉から掠れた声が漏れる。
「……お母さん?」
確かに面影があった。
写真で見た高槻美沙子に似ている。
だが目が違う。
黒く濁り、底のない水面のようだった。
女は口を開く。
『玲奈……』
水を含んだような声。
『どうして、来たの』
玲奈が一歩前へ出ようとする。
修司はとっさに彼女の腕を掴んだ。
「行くな!」
次の瞬間、女の首が不自然な角度にねじれた。
骨が軋む音が地下室に響く。
そして女は低く笑った。
『やっと……娘を返してもらえる』
地下室の照明が突然チカチカと点滅し、冷たい水がどこからともなく床に溢れ始めた。
その水は、赤橋の川の匂いがした。




