第三話 濡れた女の顔
画面に映った女は、目を閉じていた。
黒髪が顔に張り付き、青白い頬には水滴が流れている。
死体写真のようにも見える。
だが次の瞬間、その瞼がゆっくり開いた。
真っ黒だった。
白目がない。
玲奈が短く悲鳴を漏らし、修司の腕にしがみつく。
スマホは数秒後、何事もなかったかのように暗転した。
「見間違いじゃない……ですよね」
「ああ」
修司は端末を手に取った。
送信履歴を確認しても、メッセージは残っていない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
だが二人とも同じものを見た。
それだけは確かだった。
夜明け前、玲奈はソファで眠ってしまった。
細い身体を丸め、不安から逃れるようにクッションを抱いている。
修司は窓際で煙草を吸いたくなったが、このホテルは全館禁煙だった。
代わりに缶コーヒーを開け、黒田のスマホをもう一度調べる。
写真の位置情報を追うと、赤橋以外にもう一か所、頻繁に記録されている場所があった。
「猪名川町木津・旧久代診療所跡」
昭和の終わりに閉鎖された山間の診療所らしい。
黒田は失踪直前、その場所を三度訪れていた。
「診療所……」
修司が呟いた時、玲奈が目を覚ました。
寝起きのせいか、普段より幼く見える。
「何か分かったんですか?」
修司は地図を見せた。
玲奈の表情が曇る。
「そこ、母が最後に勤めていた小学校の学区です」
偶然にしては出来すぎていた。
午前九時。
雨は弱まったが、空はまだ重い雲に覆われている。
二人は川西市役所近くの図書館へ向かった。
郷土資料室なら、昭和五十年代の失踪事件を調べられるかもしれない。
古い新聞縮刷版をめくるうち、修司は一本の記事を見つけた。
「猪名川町で女性教諭失踪」
昭和五十六年六月二十一日。
二十八歳の女性教諭・高槻美沙子が帰宅途中に行方不明。
最後の目撃場所は、赤橋から約二キロ離れた旧久代診療所前。
記事の片隅には、さらに小さな続報が載っていた。
「同地区で児童二名が相次ぎ失踪」
しかも二人とも、美沙子の担任クラスの児童だった。
玲奈が新聞を見つめたまま動かなくなる。
「知らなかった……こんなの」
「家族には伝えられていなかったのか」
「父は母の話をほとんどしませんでした。『事故だった』としか……」
修司は記者時代の勘を働かせた。
教師の失踪。
児童の連続失踪。
診療所。
そして遺体が出ない。
単なる怪談ではない。
何かの事件が、意図的に埋もれさせられている。
図書館を出た頃には昼を過ぎていた。
近くの古い洋食屋に入り、二人は遅い昼食を取る。
玲奈はナイフを持つ手を少し震わせている。
「怖いですか?」
修司が尋ねると、彼女は苦笑した。
「怖いです。でも、知りたい気持ちの方が強い」
その強さは、昨夜の怯えた姿とは別人のようだった。
「相良さんは、どうしてそこまで黒田さんを探すんですか?」
修司はしばらく黙った。
そして観念したように口を開く。
「昔、俺の誤報で一人の男が自殺した」
玲奈が顔を上げる。
「証拠が不十分なのに記事を書いた。編集部に煽られて、俺も若かった」
修司は水を一口飲んだ。
「黒田だけは、その時も俺を見捨てなかった。だから今度は、俺が見捨てられない」
玲奈は何も言わず、そっと修司の手に触れた。
指先だけの、控えめな接触。
だがその温もりは、不思議なくらい胸に残った。
午後三時。
二人は猪名川町の山道を進み、旧久代診療所跡へ向かった。
舗装は途中で途切れ、雑草が車体を擦る。
やがて木々の間に、灰色の建物が現れた。
二階建ての小さな診療所。
窓ガラスの多くは割れ、蔦が壁を覆っている。
「ここか……」
エンジンを切った瞬間、周囲が異様な静けさに包まれた。
鳥の声すら聞こえない。
玄関の錆びた扉を押すと、ギィ……と長い軋み音が響いた。
中には古い消毒液の匂いがまだ微かに残っている。
受付。
待合室。
倒れた椅子。
壁に貼られた昭和五十年代の健康ポスター。
玲奈が修司の袖を軽く掴む。
「……誰かいる気がする」
その時、二階からコツンと音がした。
誰かが歩いたような音。
修司は懐中電灯を構え、階段を上がる。
廊下の突き当たりに「診察室」と書かれたプレートが残っていた。
扉は半開きになっている。
中を照らすと、古びた机の上に一冊のノートが置かれていた。
不自然なくらい新しい。
修司が近づく。
表紙には、黒田慎一の字でこう書かれていた。
「赤橋事件取材メモ」
ページをめくる。
そこには走り書きが並んでいた。
美沙子先生は児童失踪を調べていた
診療所の地下に何かある
橋の女は“母親”ではない
本当に危険なのは――
その先は、赤黒い染みで滲んでいた。
血のように見える。
玲奈が息を呑んだ瞬間、廊下の奥で扉が**バタン!**と閉まった。
二人は振り返る。
誰もいないはずの廃診療所の奥から、今度ははっきりと足音が近づいてきた。
コツ……コツ……コツ……。
濡れた靴で歩くような音だった。




