第二話 橋の下の女
笑い声は、確かに橋の下から聞こえた。
修司の背中に冷たいものが走る。
雨に濡れた欄干へ身を乗り出し、懐中電灯を下へ向けた。
濁流が渦を巻き、白く泡立っている。
だが、その一瞬だけ――。
水面の奥に、白い顔が浮かんだ気がした。
「相良さん!」
玲奈が腕を掴んだ。
その細い指は驚くほど冷たかった。
「見ちゃ駄目です」
「今、誰かいた」
「ここでは“見た”と思った時点で、もう関わってしまうんです」
玲奈の声は震えていた。
修司はスマートフォンを握り締めたまま、橋を後にした。
二人は川西市街まで戻り、国道沿いのビジネスホテルに入った。
時刻は午前三時を回っている。
フロントの蛍光灯が妙に白く、現実感を失わせた。
「別々の部屋を取ります?」
玲奈が小さく尋ねる。
修司は少し考えた。
普通ならそうするべきだ。
だが、橋で聞いた声が頭から離れない。
「隣同士で」
「……はい」
エレベーターの中で、二人は無言だった。
狭い空間に、雨と女の香水が混じった匂いが漂う。
玲奈は濡れた髪をタオルで押さえながら、時折こちらを見上げてくる。
その視線には怯えと、奇妙な期待が同居していた。
修司の部屋。
簡素なツインルームに、コンビニで買った缶コーヒーと資料を広げる。
黒田のスマホは完全には壊れていなかった。
防水性能のおかげか、かろうじてデータを確認できる。
写真フォルダを開いた瞬間、玲奈が息を呑んだ。
そこには赤橋の写真が大量に保存されていた。
昼。
夕暮れ。
夜。
そして最後の一枚。
橋の中央に立つ白い女の後ろ姿。
撮影日時は、黒田が失踪した当日の午後十一時四十七分。
「顔は写ってないな」
修司が拡大すると、画像の隅に奇妙なものが映っていた。
欄干の下から伸びる、濡れた白い手。
まるで橋の上の女を掴もうとしているようだった。
玲奈が無意識に修司の袖を握る。
「これ……加工じゃないですよね」
「黒田にそんな技術はない」
さらにメモアプリを開く。
そこには断片的な文章が残されていた。
『昭和五十六年 猪名川町連続失踪』
『橋の下で女が死んだ』
『遺体は見つからなかった』
そして最後に、乱れた文字で。
『玲奈に近づくな』
部屋の空気が凍りついた。
玲奈は唇を噛み、視線を逸らした。
「……説明してもらえるか」
長い沈黙の後、彼女は静かに口を開いた。
「私の母が、あの橋で亡くなったんです」
玲奈が十歳の時だった。
母・美沙子は猪名川町の小学校で教師をしていた。
ある夜、突然失踪した。
数日後、赤橋の欄干に母の靴だけが残されていたという。
「警察は自殺だと処理しました。でも、遺体は出なかった」
玲奈は膝の上で指を強く組み合わせた。
「それ以来、あの橋では時々“白い女”が目撃されるようになったんです」
「君は、それを調べていたのか」
「はい。母が本当に死んだのか知りたくて」
修司は黒田のメモを思い出す。
『玲奈に近づくな』
それは彼女が危険人物だという意味なのか。
それとも――彼女自身が呪いに巻き込まれているという警告なのか。
玲奈は俯いたまま続けた。
「黒田さん、調べるうちにおかしくなっていきました。“橋の下から女が呼ぶ”って何度も……」
その時、部屋の電話が鳴った。
突然の電子音に、二人とも肩を震わせる。
修司が受話器を取った。
「……はい」
雑音。
ザーッという水音のようなノイズ。
そして女の声。
『返して』
低く、湿った声だった。
『わたしの子を返して』
ブツッ。
電話は切れた。
修司が受話器を置くと、玲奈の顔は真っ青になっていた。
「今の……」
「ああ。女の声だ」
部屋の窓がカタリと鳴る。
十階の窓の外に、雨に濡れた白い影が一瞬だけ貼り付いたように見えた。
修司は反射的にカーテンを開けた。
だが外には、雨の降る川西の夜景しかない。
玲奈は自分の部屋へ戻ろうとしたが、ドアの前で立ち止まった。
「……一人だと、眠れないかもしれません」
その言葉は弱々しかった。
普段は理性的に振る舞おうとしている彼女が、今だけは年下の女性らしい不安を隠せていない。
修司は苦笑した。
「ソファなら使っていい」
玲奈はほっとしたように微笑む。
シャワーを浴びた後、彼女はホテルの浴衣姿で戻ってきた。
濡れた髪からはシャンプーの甘い香りが漂う。
修司は視線を逸らそうとしたが、玲奈が近くに座ったことで、細い首筋や鎖骨が嫌でも目に入ってしまう。
「相良さんって、優しいんですね」
「そうでもない」
「少なくとも、無理に強がれとは言わない」
玲奈はそう言って、そっと修司の肩にもたれた。
その体温は思っていたより温かかった。
年齢差十三歳。
普通なら、こんな形で出会うことはなかっただろう。
だが今は、呪われた橋と失踪した友人という異常の中で、互いだけが頼れる存在になりつつあった。
玲奈が小さく呟く。
「……もし私が呪われていても、一緒に調べてくれますか?」
修司はしばらく答えられなかった。
橋の下の笑い声。
黒田の警告。
白い女。
危険なのは間違いない。
それでも、震える彼女を突き放すことはできなかった。
「黒田を見つけるまではな」
玲奈は安心したように目を閉じた。
その瞬間だった。
テーブルの上に置いていた黒田のスマホが、突然ひとりでに点灯した。
画面には、新着メッセージ。
送信者は存在しない。
表示された文章は、たった一行だった。
《次は玲奈を連れて来い》
そして画面いっぱいに、濡れた女の顔が映し出された。




