第一話 五月山の雨
阪急宝塚線の終電は、雨の日になると妙に古びて見える。
車窓に映る自分の顔を見ながら、相良修司は小さく舌打ちした。
四十五歳。独身。職業はフリーライター――と名乗っているが、実際にはネット媒体に載る怪談記事や都市伝説の取材で食いつないでいるだけだ。
かつては週刊誌の記者だった。
だが、ある誤報記事をきっかけに編集部を追われ、以来、誰にも深く関わらずに生きてきた。
スマートフォンが震えた。
表示された名前を見て、修司は眉をひそめる。
「黒田慎一」
大学時代からの数少ない友人だった。
《猪名川の“赤い橋”って知ってるか? あそこ、本当に人が消える》
三日前に届いたメッセージ。
そしてその後、黒田は連絡を絶った。
電話も通じない。
SNSの更新も止まっている。
兵庫県警川西署に問い合わせても、「成人男性の所在については個人情報になる」と冷たく返されただけだった。
修司はため息をつき、宝塚駅で電車を降りた。
雨はさらに強くなっている。
駅前のロータリーにはタクシーが並び、濡れたアスファルトが街灯をぼんやり反射していた。
黒田が最後に送ってきた位置情報は、川西市北部から猪名川町へ向かう県道沿いを指している。
こんな夜に行くべきではない。
そう思いながらも、修司はレンタカーのキーを握り締めていた。
県道12号線は、夜になると急に山の匂いが濃くなる。
宝塚の華やかな街並みを離れ、川西を抜け、猪名川へ近づくにつれて、コンビニの間隔が長くなっていく。
ワイパーが一定のリズムで雨を払う。
その単調な音に紛れて、修司はふと違和感を覚えた。
バックミラーに、白い傘が映った。
後続車などいない。
暗い山道の中央に、女が立っていた。
「……っ」
急ブレーキ。
タイヤが水をはねる。
だが、車を降りて確認しても、そこには誰もいない。
濡れたガードレールと、山から流れ落ちる水の音だけ。
「疲れてるな……」
自嘲気味に呟いた瞬間、背後から声がした。
「今、女の人を見ました?」
修司は振り返った。
街灯の届かない闇の中に、一人の女が立っている。
三十代前半くらいだろうか。
黒髪を肩まで伸ばし、ベージュのトレンチコートを羽織っている。雨に濡れた前髪が頬に張り付き、その奥の瞳だけが妙に静かだった。
「あなたも見たんですか?」
「白い傘の女でしょう」
女は当然のように言った。
「この道では、よく出るんです」
修司は警戒した。
こんな山道で偶然会うには出来すぎている。
「あなたは?」
「たかつき、、高槻 玲奈 と、言います」
彼女は軽く頭を下げた。
「心理カウンセラーをしています。……と言っても、今は半分休業中なんですけど…」
「こんな時間に、こんな場所で?」
「人を探してるんです」
玲奈はそう言って、修司の顔をじっと見た。
「もしかして、相良修司さんですよね?」
「……なぜ俺の名前を?」
「黒田慎一さんから聞いていました」
その瞬間、山の空気が一段冷たくなった気がした。
近くの古びた喫茶店「峠」で、二人は向かい合って座った。
深夜営業のその店には客がいない。
古いジャズが小さく流れ、コーヒーの苦い香りが漂っている。
玲奈はカップを両手で包み込みながら言った。
「黒田さんは一週間前、私のところに相談に来ました」
「相談?」
「“誰かに見られている”って」
修司は黙って続きを促した。
「最初はただの被害妄想かと思ったんです。でも、彼は妙に具体的だった。猪名川町の外れにある古い橋――地元では“赤橋”って呼ばれている場所で、女性の声を聞いたと言っていました」
「それで?」
「その声を聞いた人間は、一人ずつ消えていく……そう怯えていました」
玲奈は視線を伏せた。
長い睫毛に、店の暖色の光が落ちる。
どこか儚げで、それでいて妙に人の心を試すような雰囲気がある女だった。
「正直、興味本位もありました」
彼女は苦笑した。
「私、少し変わってるんです。危険だと分かっているものに惹かれるところがある」
修司はその言葉の裏に、かすかな自虐を感じ取った。
「黒田は今どこにいると思う?」
玲奈はしばらく沈黙した後、小さく答えた。
「赤橋の近くです」
雨は未明になっても止まなかった。
二人は再び車に乗り込み、猪名川町の山奥へ向かった。
ナビの地図から道路の色が消え、やがて細い旧道に入る。
杉林に囲まれたその道の先に、赤錆びた欄干の橋が現れた。
正式名称は失われ、地元でも「赤橋」としか呼ばれていない。
橋の下には、増水した猪名川の支流が黒く渦を巻いている。
エンジンを切ると、雨音だけが世界を満たした。
その時だった。
橋の中央に、誰かが立っていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
うつむいたまま動かない。
玲奈が小さく息を呑む。
修司は懐中電灯を向けた。
光が届いた瞬間、その女は欄干の向こうへゆっくり身を乗り出した。
「危ない!」
修司が駆け出す。
だが橋の中央に辿り着いた時、そこには誰もいなかった。
代わりに、濡れたコンクリートの上に一台のスマートフォンが落ちていた。
画面は割れ、雨水が滲んでいる。
修司が拾い上げると、かろうじてロック画面が点灯した。
そこに表示されていたのは、黒田慎一の名前だった。
そして通知欄には、最後の未送信メッセージが残されていた。
《来るな。あの女は、まだ橋の下にいる》
次の瞬間。
橋の下から、女の笑い声が聞こえた。
濁流の音に混じって。
湿った髪が首筋を撫でるような、低く甘い笑い声が――。




