第九話
王都の目抜き通りにある、最高級ブティック『ラ・ベル・ローズ』。
そこは、平民の年収が「端した金」として消えていく魔境だ。
「ほら、次。これも着てみなさい」
「は、はいぃ……!」
私は試着室と売り場を往復するシャトルランを繰り返していた。
セシリア様はソファに優雅に腰掛け、次々とドレスを指定してくる。
「ハードな遊び」とは、この着せ替えマラソンのことだったのだ。
体力的には、昨日の「改造(治療)」のおかげで無限に動ける。
けれど、精神的な負荷がすごい。
鏡に映る自分が、分不相応すぎて直視できないのだ。
「少し休憩しましょうか。店員、お茶を」
「かしこまりました」
セシリア様が奥のVIPルームへ、店長らしき人物と何か話し込みに行く。
私は広い店内に一人、取り残された。
ふう、と息をつく。
煌びやかなドレスに囲まれていると、自分が元・薄汚い奴隷だったことを忘れそうになる。
でも、ふとショーウィンドウに映った自分の手首には、まだ奴隷商につけられた鉄鎖の痕が薄く残っていた。
(……やっぱり、私は場違いだなぁ)
ここは本来、高貴な方々が来る場所だ。
私のような人間がいていい場所じゃない。
その時だった。
「おい、そこな」
背後から、ねっとりとした男の声がかかった。
ビクリと振り返ると、そこには脂ぎった太った男が立っていた。
高そうな服を着ているが、その腹のボタンは悲鳴を上げている。後ろには護衛らしきガラの悪い男が二人。
「は、はい……?」
「なんだその目は。平民風情が、貴族である私を見下ろすとはいい度胸だな」
男は不快そうに顔を歪めると、いきなり私の腕をガシリと掴んだ。
「いっ……!」
「見ない顔だな。どこの家の使用人だ? 教育がなってないんじゃないか?」
痛い。力が強い。
男の指が、私の二の腕に食い込む。
その痛みと共に、フラッシュバックしたのは数日前の記憶。
檻の中。暴力。値踏みする視線。
――怖い。
私は反射的に身を竦ませた。
言葉が出てこない。謝らなきゃいけないのに、喉が張り付いて声が出ない。
「なんだ、啞か? それとも無視か?」
「ち、ちが……ごめんなさ……」
「ほう、その腕の傷。さては貴様、逃げ出した奴隷か何かだな?」
男がニチャリと笑う。
彼は私の手首の痕に気づいたのだ。
「こんな高級店に奴隷が紛れ込むなど、店の信用に関わるな。
衛兵に突き出してやろうか? それとも、私の屋敷でじっくり『教育』してやろうか?」
男の手が、私の頬へ伸びてくる。
殺される。連れて行かれる。
せっかくセシリア様に拾ってもらって、ご飯も食べて、お風呂にも入って、人間らしくなれたのに。
また、あの地獄に戻るの?
(嫌だ、助けて……!)
私はギュッと目を閉じた。
「――汚らわしい」
その声は、店内の空気を一瞬で凍らせた。
ヒュッ、と男の動きが止まる。
私も、護衛たちも、店員さえも、全員がその場に縫い付けられたように動けなくなった。
絶対的な捕食者の気配。
カツン、カツン、と。
ゆっくりと、ヒールの音が近づいてくる。
「セ、セシリア様……?」
目を開けると、そこには鬼神のごとき形相の彼女が立っていた。
美しい顔は無表情のまま。
けれど、その深紅の瞳の奥には、煮えたぎるような殺意と、氷河のような冷徹さが渦巻いている。
「あ、あなたは……公爵家のセシリア嬢!?」
男が慌てて私の手を離し、媚びるような笑みを浮かべた。
「いやぁ、奇遇ですな! こんなところで――ひいっ!?」
男の言葉は、悲鳴にかき消された。
パキパキパキッ! という音と共に、男の足元から床が凍りついたのだ。
氷は生き物のように男の足を這い上がり、その自由を奪う。
「誰が口を利いていいと言った?」
セシリア様が扇子を開く。
その風圧だけで、護衛の男二人が人形のように吹き飛んだ。
「き、貴様っ! 貴族である私に魔法を向けるなど、正気か!?」
「黙りなさい、豚」
彼女は一歩踏み出し、私の前に立った。
背中で私を庇いながら、男を見下ろす。
「貴様、その汚い手で『何』に触れたか分かっているの?」
「な、何って……ただの薄汚い奴隷じゃありませんか! 店に紛れ込んでいたから、私が代わりに処分を……」
「処分?」
セシリア様が、低く笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、私は本能で悟った。
――あ、この人、今から何かを「壊す」つもりだ。
「その子は私の所有物よ。
私の許可なく指一本触れることすら万死に値するのに、あろうことか『処分』だと?」
彼女の周りに、鋭利な氷の槍が無数に出現する。
店内の気温が急激に下がり、吐く息が白くなる。
「私の玩具を壊していいのは、私だけよ。
他人が勝手に傷つけるなんて、私のプライドが許さない」
彼女は男の目の前に顔を寄せ、死刑宣告のように囁いた。
「その右腕、二度と使い物にならなくしてあげましょうか?」
「ひ、ひぃぃぃぃッ!! お助けぇぇぇッ!!」
男は氷に足を拘束されたまま、無様に泣き叫んだ。
失禁しているのか、股間が濡れているのが見える。
「失せなさい。私の視界に入るだけで不愉快よ」
セシリア様が指を弾くと、氷が砕け散り、男は転がるようにして店から逃げ出した。
護衛たちも、這いつくばってその後を追っていく。
静寂が戻った店内。
店員たちはガタガタと震えながら、カウンターの陰に隠れている。
私は呆然と立ち尽くしていた。
助かった。
助かったけれど……。
(……一番怖いのは、やっぱりこの人だ)
私の所有者は、魔王だったのだ。
さっきの男なんて比じゃない。格が違う。
セシリア様は乱れたドレスを直すと、ゆっくりと私の方へ向き直った。
怒られる。
トラブルの原因を作ったのは私だ。
「余計なことをするな」と、氷漬けにされるかもしれない。
私は覚悟を決めて、身を縮こまらせた。
「……たく」
彼女は短く舌打ちをした。
そして、私の腕――さっき男に掴まれた場所を、乱暴に掴んだ。
「ひっ!」
「じっとしてなさい」
彼女はハンカチを取り出すと、男が触れた部分をゴシゴシと拭い始めた。
まるで、汚物を拭き取るかのように。
「あいつの脂が移ったらどうするのよ。
せっかく綺麗に磨き上げたのに、台無しじゃない」
その手つきは乱暴だけれど、私の腕が赤くならない程度の強さだった。
彼女は眉間にしわを寄せながら、不機嫌そうに呟く。
「……言ったでしょう。お前は私のモノだって。
なのに、なんで黙って触らせているのよ。馬鹿なの?」
「す、すみませ……」
「謝る暇があったら、私の名前を呼びなさいよ」
え?
顔を上げると、セシリア様はプイと顔を背けた。
その耳が、ほんの少しだけ赤くなっているように見えたのは気のせいだろうか。
「私以外の人間にお前を虐めさせるつもりはないわ。
お前が泣いていいのは、私が意地悪をした時だけよ。……分かった?」
それは、あまりにも歪んだ、けれど絶対的な独占欲。
所有宣言。
ああ、そうだ。
私はこの人のモノになったんだった。
奴隷契約書よりも、首輪よりも強く、彼女の「プライド」によって守られているのだ。
「はい……分かりました、セシリア様」
私が答えると、彼女はフンと鼻を鳴らし、私の手を引いて歩き出した。
「行くわよ。空気が悪くなったわ。
機嫌直しに、店ごと買い占めるくらいの勢いで買い物を続けるから、覚悟しなさい」
繋がれた手は、氷魔法の使い手とは思えないほど、温かかった。
こうして、初めての外出とトラブルは、
「セシリア様は敵に回すと国が滅びるレベルで怖いが、味方にすると最強のセキュリティシステムである」
という事実を私の心に深く刻み込んで、幕を閉じたのだった。




