第十話
帰りの馬車の中は、死のように静かだった。
ガタゴトと車輪が石畳を刻む音だけが、重苦しく響く。
向かいの席に座るセシリア様は、窓の外を流れる夜景を眺めたまま、一言も発さない。
その横顔は、彫刻のように美しく、そして氷のように冷たかった。
(……怒ってる。絶対に怒ってる)
私は膝の上で拳を握りしめ、小さくなっていた。
当然だ。
私は今日、あろうことか主人の買い物の最中にトラブルを起こした。
あの太った貴族に絡まれ、セシリア様に魔法を使わせ、あまつさえ彼女の手を煩わせたのだ。
『お前は私のモノ』
店で彼女はそう言って守ってくれたけれど、それはあくまで「所有権」を主張したに過ぎない。
冷静になれば、「他所との揉め事の種になるような奴隷は不要」と判断されるのがオチだ。
――お前みたいな無能は、どこに行っても迷惑をかけるんだ。
――代わりなんていくらでもいる。辞表を書いて消え失せろ。
前世の上司の罵声が、幻聴となって頭の中で渦巻く。
胃がキリキリと痛む。
息が苦しい。
屋敷に到着しても、セシリア様は私を見ようともしなかった。
無言で馬車を降り、スタスタと自室へ向かってしまう。
「あ……」
追いかけようとして、足が止まる。
怖い。
「もういらない」と言われるのが、何よりも怖い。
私は逃げるように、与えられた部屋の隅――豪華なベッドではなく、窓際の小さなスペースにうずくまった。
今の私には、あのフカフカの寝床さえ、分不相応な針のむしろに思えたからだ。
◇ ◇ ◇ ◇
深夜。
屋敷が寝静まった頃、私は眠れずに窓の外を見上げていた。
空には満月が浮かんでいる。
綺麗だ。
けれど、その光は今の私には眩しすぎて、自分の惨めさを浮き彫りにするようだった。
(……出て行こうかな)
ふと、そんな考えがよぎる。
これ以上、あの人に迷惑をかける前に。
温かいお風呂も、美味しいご飯も、ふかふかのベッドも、私には過ぎた夢だったんだ。
数日間の幸せな思い出だけを胸に、元のドブネズミに戻るべきなんだ。
ギィ、と。
窓を開け、冷たい夜風を浴びる。
ここから飛び降りれば、庭伝いに外へ出られるかもしれない。
「――何をしているの?」
背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がった。
恐る恐る振り返ると、そこにはナイトガウンを羽織ったセシリア様が立っていた。
月光を背負ったその姿は、この世のものとは思えないほど幻想的で、そして恐ろしい。
「セ、セシリア様……」
「こんな夜更けに窓を開けて。風邪をひくわよ」
「すみません……。あの、私……」
言葉が詰まる。
謝罪の言葉も、感謝の言葉も、全部喉の奥で絡まって出てこない。
ただ、涙だけが溢れてきた。
「私、ごめんなさい……! 迷惑ばかりかけて、足手まといで……!
せっかく綺麗にしていただいたのに、トラブルまで起こして……っ!」
一度決壊したダムはもう止まらない。
私は床に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくった。
「もう捨ててください……! 私なんか、いない方がいいんです……!
役に立たないし、地味だし、貴女の美しさに泥を塗るだけです……っ!」
今まで心の奥底に溜め込んでいた自己否定が、黒い泥のように吐き出される。
私は価値がない。
私はゴミだ。
生きていてごめんなさい。
セシリア様は無言で私を見下ろしていた。
ああ、これで終わりだ。
きっと、「そうね、目障りだわ」と言って――。
ふわり。
予想していた冷たい言葉の代わりに、温かい何かが私の肩を包み込んだ。
それは、セシリア様が羽織っていた、分厚い毛皮のショールだった。
「……え?」
顔を上げると、彼女は呆れたように、けれどどこか痛ましげに眉を寄せていた。
「馬鹿ね。本当に、救いようのない大馬鹿者だわ」
彼女は私の前に膝をつき、目線を合わせた。
そして、涙で濡れた私の頬を、その冷たい指先でそっと拭う。
「誰が『迷惑だ』と言ったの?
誰が『捨ててやる』なんて言ったのかしら?」
「で、でも……私、なんの役にも……」
「役になんて立たなくていいわ」
彼女はきっぱりと言い放った。
「勘違いしないでちょうだい。私が貴女を拾ったのは、掃除をさせるためでも、見世物にするためでもない。
私が『欲しかった』からよ」
彼女は私の顎を持ち上げ、その深い紅色の瞳で私を射抜く。
「私の目は節穴じゃないわ。
泥にまみれていても、貴女という素材が持つ輝きを見抜いたの。
それを、他人の言葉や、貴女自身の卑屈さで否定することは、私の審美眼への冒涜よ」
「セシリア、様……」
「泣き止みなさい。
そんなぐしゃぐしゃな顔じゃ、せっかくの景色が台無しよ」
彼女は立ち上がると、開け放たれた窓へと歩み寄った。
そして、夜空に向かって優雅に右手を掲げる。
「よく見ていなさい。
貴女の曇った瞳を洗うための、とびきりの魔法よ」
パチン、と。
彼女が指を鳴らした瞬間。
世界が変わった。
ヒュオオオオ……ッ!
庭園の空気が一瞬にして凍りつき、無数の氷の結晶が虚空に生まれた。
それは月の光を浴びて、七色に輝きながら舞い降りてくる。
ダイヤモンドダスト。
いや、それよりももっと神秘的な、光の粒子。
キラキラと煌めく氷の粒が、夜の庭を埋め尽くしていく。
枯れ木は水晶の樹木へと変わり、芝生は銀色の海になった。
まるで、星空がそのまま地上に降り注いできたような、圧倒的な光景。
「あ……」
息をすることすら忘れた。
綺麗。
ただただ、綺麗だった。
涙で滲んだ視界の中で、その光は幾重にも反射し、幻想的な輝きを放っている。
「これが私の魔力。全てを凍らせ、時を止める力」
セシリア様が窓辺に立ち、その光景を背にして振り返る。
逆光に照らされた彼女の姿は、まさしく「氷の女王」そのものだった。
「でもね、凍りついた世界も、見方を変えればこんなに美しいの」
彼女は手を伸ばし、空中に舞う一つの光の粒を指先に乗せた。
「貴女も同じよ。
今はまだ、自分の価値が分からないかもしれない。
誰かに否定され続けて、心が凍りついているかもしれない。
――でも、私には見えるわ」
彼女はふわりと微笑んだ。
今までの意地悪な笑みじゃない。
春の陽だまりのような、優しく、慈愛に満ちた聖母の微笑み。
「貴女は、この氷の粒よりも綺麗よ。
だから、自分を卑下するのはやめなさい。
私が許さない。
貴女は、このセシリアが認めた、世界でたった一つの『宝物』なのだから」
――ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。
宝物。
生まれて初めて言われた言葉。
「使えない」「ゴミ」「代用品」。そんな言葉ばかり浴びせられてきた私の人生に、その一言はあまりにも鮮烈で、温かくて。
「う、うぁ……ああああ……ッ!」
今度の涙は、悲しみのものではなかった。
冷え切っていた心の芯が、熱を持って溶け出していく感覚。
赦された。
認められた。
生きていていいんだと、肯定された。
私はショールを握りしめ、窓辺に歩み寄ると、そのままセシリア様にしがみついた。
「ありがとうございます……ッ! ありがとうございますぅぅ……ッ!」
「ちょ、ちょっと! 鼻水をつけないでよ! このガウン、高いんだから!」
彼女は慌てた声を上げたけれど、私を突き放すことはしなかった。
それどころか、躊躇いがちに私の背中に腕を回し、ポンポンと不器用に撫でてくれたのだ。
「……よしよし。
今日は特別に、気が済むまで泣くことを許可するわ」
窓の外では、無数のダイヤモンドダストが、祝福のように降り注いでいた。
その輝きは、私の人生で見たどんな景色よりも美しかった。
この日、私は本当の意味で、彼女の「奴隷」になったのだと思う。
契約書や鎖なんて関係ない。
私の魂が、心臓が、全存在が、この気高き氷の魔女に捧げられた瞬間だった。
(ああ、神様。ブラック企業から転生して本当によかった)
セシリア様の腕の中で、私は泣き笑いのような顔で、キラキラと輝く夜空を見上げていた。
ここが私の居場所。
もう二度と、ここから逃げ出したりしない。
この幸福な「勘違い」が解ける日が来るのかは分からないけれど。
少なくとも今夜だけは、この世界は私たち二人だけのために輝いていた。




