第十一話
柔らかい。温かい。そして、とろけるように甘い匂いがする。
まどろみの中で、私は幸せな圧迫感に包まれていた。
なんだろう、この最高級の羽毛布団に全身を埋めているような感覚は。
天国かな。それとも、まだ夢の中かな。
うっすらと目を開けると、視界いっぱいに「金色の糸」が広がっていた。
いいえ、糸じゃない。
それは、窓から差し込む朝日に透けて輝く、美しい金髪だった。
「……すぅ……んぅ……」
耳元で、可愛らしい寝息が聞こえる。
恐る恐る視線を下げると、そこには信じられない光景があった。
あの「氷の魔女」ことセシリア様が、私の胸に顔を埋め、まるでテディベアでも抱くように、私の体をギュッと抱きしめていたのだ。
「――っ!?」
心臓が止まるかと思った。
至近距離すぎる。
長いまつ毛の一本一本まで数えられそうだ。
普段の冷徹な表情はどこへやら、今の彼女は無防備な少女そのもの。少し開いた唇が、あどけなくて愛おしい。
(ど、どうしてこうなった……!?)
確か昨晩は、「部屋が寒いから」という理由で同じベッドに入れられたはずだ。
でも、まさか私が抱き枕認定されるなんて聞いてない。
腕が痺れてきた。
そっと、抜け出そうと身体をよじる。
その瞬間だった。
「……だめ」
むにゅ、と。
セシリア様が夢うつつな声で呟き、私の腰に回した腕に力を込めた。
さらに、私の首筋に自分の頬をスリスリと擦り付けてくる。
「……いかないで。……これ、私の……」
彼女は私の匂いを吸い込むように鼻を鳴らし、甘えた声で言った。
「……わたしの、ぬい、ぐるみ……」
――ズキューン!!
私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれる音がした。
ぬいぐるみ。
私は、ぬいぐるみ。
人類史上、これほど名誉ある役職があっただろうか。いや、ない。
「あ、あの……セシリア様? そろそろ起きないと……」
「……んんー……うるさい……」
彼女は不満げに眉を寄せると、さらに強く私を抱きしめた。
柔らかい感触と体温が、ダイレクトに伝わってくる。
「あと五分……いいえ、五時間……このまま……」
「ご、五時間はさすがに……」
「……命令よ。じっとしてなさい。貴女は私の湯たんぽなんだから」
そう言って、彼女は満足そうに再び寝息を立て始めた。
部屋の暖炉はガンガンに焚かれている。湯たんぽなんて必要ないはずだ。
つまり、これは彼女なりの「離したくない」という意思表示なのだろうか。
ああ、幸せだ。
私はセシリア様の甘い匂いに包まれながら、幸福な二度寝へと身を委ねた。
――しかし。
この平和すぎる朝は、嵐の前の静けさに過ぎなかったのだ。
◇
幸福な朝から数時間後。
優雅なティータイムを楽しんでいた私たちの元へ、執事のセバスチャンが血相を変えて飛び込んできた。
「大変です、お嬢様! 王宮より、フレデリック殿下がお見えです!」
フレデリック。
その名を聞いた瞬間、マカロンを齧っていたセシリア様の表情が凍りついた。
「……アポなしで来るなんて、相変わらず無粋な男ね」
「お通ししてよろしいでしょうか?」
「追い返したいところだけれど、向こうは第一王子だもの。無下にすれば父様がうるさいわ」
彼女はため息をつき、「通しなさい」と手を振った。
フレデリック殿下。
この国の王子。
噂では、冷徹なまでの合理主義者で、「歩く能率厨」と呼ばれているらしい。
(やばい、隠れなきゃ)
私は直感的に危機を察知し、ソファの陰に身を隠そうとした。
しかし、時すでに遅し。
カツ、カツ、カツ。
規則正しい、一切の乱れがない足音が響き、一人の青年が現れた。
金髪碧眼。彫刻のように整った顔立ち。
しかし、その瞳には感情の色がなく、まるで精密機械のような冷たさを宿していた。
「やあ、セシリア。息災か」
「ええ、おかげさまで。何の用かしら、殿下」
挨拶もそこそこに、フレデリック殿下の視線が、部屋の隅でマカロンの屑を口につけたまま硬直している私を捉えた。
「……なんだ、その薄汚い小動物は」
「私の新しいペットよ」
「ペット? 人間に首輪をつけて飼っているのか?」
殿下の眉がピクリと動く。
彼は私の方へ歩み寄り、値踏みするように見下ろした。
「身なりは整えているようだが……所作がなっていない。それに、この昼下がりに何をしている? 仕事は?」
「し、仕事……」
その単語が出た瞬間、私の背筋に電撃が走った。
仕事。労働。生産性。
前世の呪縛が、脳内で警鐘を鳴らす。
「貴様、使用人ではないのか?」
「い、いえ! その、私は……!」
「ただ飯を食らっているのか? この公爵家において、無為徒食の穀潰しを飼っていると?」
殿下の声は静かだが、鋭い刃物のように突き刺さる。
「人間である以上、何らかの価値を生み出すべきだ。
掃除、洗濯、給仕。あるいは芸事。
何もせず、ただ消費するだけの存在など、害虫と変わらない」
「生産性のない人間は生きる価値がない」
――生きる価値がない。
ああ、そうだ。
この人の言う通りだ。
前世の上司も同じことを言っていた。
「利益を出さない社員はゴミだ」「代わりはいくらでもいる」。
私は何もしていない。セシリア様の慈悲にすがって、寄生しているだけだ。
恐怖と罪悪感で、手が震え出す。
動かなきゃ。働かなきゃ。
役に立つところを見せないと、捨てられる。
「も、申し訳ございませんんッ!!」
私は反射的に床に膝をつき、カップを手に取った。
「す、すぐにお茶を入れ直します! それから窓拭きと、床磨きも!
私、トイレ掃除が得意なんです! 素手で便器を磨けます!
だから捨てないでください、働きますからぁッ!」
染み付いた社畜根性が、私を突き動かす。
殿下の前に這いつくばり、必死に「使える奴隷」アピールをする。
「ほう。多少は殊勝な心掛けがあるようだな」
殿下は冷ややかな満足げな笑みを浮かべた。
「ならば、まずはそのテーブルを片付けろ。手際を見せてもらおうか」
「はいッ! ただちに!!」
私がナプキンに手を伸ばした、その時だった。
「――やめなさい」
パシッ。
私の手首が、誰かに掴まれた。
冷たい、けれど力強い感触。
「セ、セシリア様……?」
「座りなさい。誰が許可なく働いていいと言ったの?」
セシリア様は私を無理やりソファに座らせると、鬼のような形相で殿下を睨みつけた。
部屋の温度が、一気に氷点下まで下がる。
「フレデリック。私の所有物に、勝手な価値観を押し付けないでちょうだい」
「価値観? 私は当然のことを言ったまでだ。
無能な人間を更生させ、労働の喜びを与える。王族としての慈悲だ」
「慈悲? 笑わせるわね」
セシリア様は鼻で笑った。
そして、私の肩を抱き寄せ、彼に見せつけるように言った。
「貴方は何も分かっていないわ。
この子はね、『何もしない』ためにここにいるのよ」
「……何?」
「生産性? 能率? そんなものは、貴方みたいな貧乏性の人間が気にしていればいいわ。
私は違う。
何も産まない、何の役にも立たない、ただ可愛いだけの存在に、湯水のように金をかけて愛でる。
それが『真の贅沢』というものよ」
彼女は私の頭を撫で回した。
「見てなさい。この子はこれから、最高級の茶葉を飲み、柔らかいクッションで昼寝をするわ。
仕事なんて下品なことはさせない。指一本動かさせない。
それが私の『美学』であり、この家のルールよ。
――文句があるなら、出て行ってくださる?」
その言葉は、殿下の「正論」を根底から覆す、圧倒的な「暴論」だった。
けれど、その暴論こそが、今の私には何よりも尊い救いだった。
「……狂っているな」
「最高の褒め言葉ね」
殿下は呆れ果てたように肩をすくめると、踵を返した。
「話にならん。時間の無駄だった」
「二度と来なくていいわよ。空気が悪くなるから」
バタン、と扉が閉まる。
嵐が去った後のような静寂の中で、私は震えながらセシリア様を見上げた。
「あ、あの……ごめんなさい……私、つい……」
「はぁ……」
セシリア様は深いため息をつくと、私の額を指でピンと弾いた。
「痛っ」
「本当に、骨の髄まで奴隷根性が染み付いているのね。
あんな男の言うことなんて、馬の耳に念仏……じゃなくて、馬耳東風で聞き流せばいいのよ」
彼女は私の手に、新しいマカロンを押し付けた。
「いいこと? よくお聞き。
貴女の仕事は『生きていること』。それだけよ。
呼吸をして、食べて、寝て、私のそばにいればそれで満点なの。
それ以上、余計な付加価値なんて付けようとしたら、氷漬けにするわよ?」
生きているだけで満点。
そんな評価基準、前世の人事考課表にはなかった。
マカロンを齧る。
甘い。
さっきまでの恐怖が溶けていくように、甘い。
「……はい。精一杯、怠惰に生きます」
「よろしい」
セシリア様は満足げに微笑むと、再び読書に戻った。
私は知った。
この世には、どんな「正論」よりも強い「愛」があるということを。
そして、その歪んだ愛こそが、壊れかけた私の心を繋ぎ止める唯一の薬なのだということを。




