第十二話
その日は、朝からしとしとと雨が降っていた。
灰色の空。窓を叩く冷たい雨粒。
前世の私なら、これは「絶望」の合図だった。
濡れた靴下、湿気でベタつく満員電車、気圧の低下による頭痛。それでも這ってでも会社に行かなければならないという強迫観念。
けれど、今の私にとって、雨は――。
「……暇ね」
暖炉の前で、セシリア様がぼんやりと呟いた。
私たちは今、最高級のペルシャ絨毯の上に並んで座り、毛布にくるまっている。
部屋の中はポカポカと暖かく、パチパチと薪が爆ぜる音だけが心地よく響いている。
「お庭の散歩もできませんし、お買い物も行けませんね」
「ええ。最悪だわ。外に出られないなんて、まるで監獄よ」
彼女は不満げに唇を尖らせたが、その膝の上には分厚い画集があり、手元には湯気を立てるマグカップがある。
監獄というよりは、極上の「引きこもり天国」だ。
「ほら、飲みなさい。冷めるわよ」
「あ、ありがとうございます」
手渡されたマグカップには、ドロリと濃厚なホット・チョコレートが波打っていた。
一口飲むと、カカオの芳醇な香りと、脳が痺れるほどの甘さが口いっぱいに広がる。
「んんっ……! 美味しい……!」
「砂糖とミルクを限界まで入れた特別製よ。これを飲んで、その貧相な身体に脂肪をつけなさい」
「はい、喜んで太らせていただきます……」
雨音をBGMに、甘いココアを啜る。
幸せすぎて、自分が元社畜だったことを忘れそうだ。
「……それにしても」
セシリア様が、じっと私を見つめてきた。
その深紅の瞳が、私の頭のあたりで止まる。
「貴女、髪がボサボサよ」
「えっ? す、すみません! 寝癖が……」
慌てて手櫛で整えようとするが、私の髪は長年の栄養失調とケア不足で、毛先が傷んで絡まっていた。
王子の言う通り、私はやっぱり薄汚い小動物なのだ。
「チッ……見てられないわ」
「申し訳ありません、すぐに結んで隠しますから……」
「こっちを向きなさい」
セシリア様は私の肩を強引に掴み、自分の方へ背中を向けさせた。
「え、あの、セシリア様?」
「じっとしてて」
彼女が取り出したのは、猪の毛で作られた高級なヘアブラシと、香油の小瓶だった。
ポタリ、と甘いローズの香りがするオイルが垂らされる。
「そんなゴワゴワな髪じゃ、私の抱き枕としての品質に関わるわ。
徹底的にメンテナンスしてあげる」
そう言って、彼女は私の髪を梳かし始めた。
スッ、スッ、と。
リズム良くブラシが通るたびに、頭皮が心地よく刺激される。
絡まった部分は、指先で丁寧に、驚くほど優しく解いてくれる。
「痛くない?」
「……はい。全然、痛くないです」
むしろ、気持ちいい。
誰かに髪を梳かしてもらうなんて、いつぶりだろう。
子供の頃、母親にしてもらった時以来かもしれない。
「……貴女の髪、色は悪くないのよね」
背中で、セシリア様が独り言のように呟いた。
「手入れさえすれば、きっと綺麗な栗色になるわ。
絹糸みたいにツヤツヤにして、誰もが振り返るようにしてあげる」
「そんな……私なんかに、もったいないです」
「うるさいわね。私がそうしたいの」
彼女は私の髪を掬い上げ、楽しそうにブラシを動かす。
その手つきは、お気に入りの着せ替え人形を愛でる少女のようだ。
「……ねえ」
「はい」
「あの能率バカの王子が言ってたこと、まだ気にしてる?」
不意を突かれた。
ドキリと心臓が跳ねる。
「……少しだけ」
「馬鹿ね」
彼女はブラシを止め、私の首筋にそっと触れた。
冷たい指先。けれど、そこには確かな体温がある。
「あんな男には一生分からないわ。
雨の日に、こうして無意味な時間を過ごすことの豊かさが。
ただ髪を梳かして、ココアを飲んで、雨音を聞く。
これ以上の『生産性』がどこにあるって言うのよ」
彼女の言葉が、温かいココアのように胸に染み渡る。
無意味な時間。
生産性のない行為。
前世では「悪」だと切り捨てられていたものが、ここでは宝石のような価値を持つ。
「……ありがとうございます、セシリア様」
「お礼を言うのは早いわ。ほら、できた」
彼女が手鏡を私の前に差し出した。
そこには、丁寧にブローされ、天使の輪ができるほどツヤツヤになった私の髪が映っていた。
サイドには、彼女のドレスとお揃いの深紅のリボンが結ばれている。
「わあ……これが、私……?」
「ふふん。どう? これなら、私のペットとして連れ歩いても恥ずかしくないでしょう?」
鏡の中の私は、少しだけ自信を持てそうな顔をしていた。
それはきっと、髪が綺麗になったからだけじゃない。
鏡の端に映る、背後のセシリア様が、とても優しく微笑んでいたからだ。
「さあ、メンテナンス終了よ。
雨が止むまで、またお昼寝の時間にしましょう」
彼女はブラシを置くと、そのまま私の背中にドサリと寄りかかってきた。
重い。でも、温かい。
「……セシリア様、重いです」
「我慢なさい。貴女は私の特等席なんだから」
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
けれど、もうちっとも憂鬱じゃなかった。
この「のんびりとした牢獄」の中でなら、私はきっと、一生出所できなくても構わない。
背中に感じる主人の鼓動を聞きながら、私は静かに目を閉じた。
雨の日も、悪くない。
そう思えたのは、二度の人生で初めてのことだった。




