第十三話
その通達は、のんびりライフを満喫していた私の脳天を直撃した。
「――舞踏会、ですか?」
私が恐る恐る尋ねると、セシリア様は新しいドレスのデザイン画を眺めながら、事もなげに頷いた。
「ええ。あの能率バカの王子がうるさいから、顔だけ出してやることにしたわ。
当然、貴女も連れて行くわよ」
ヒュッ、と喉が鳴る。
舞踏会。それは貴族たちの社交場であり、政治と陰謀が渦巻く戦場だ。
前世で言えば、全社員強制参加の「全社キックオフパーティー」か、あるいは「株主総会」のようなものだろう。
胃が痛い。想像しただけで胃酸が逆流しそうだ。
「む、無理です! 私、ダンスなんて踊れません!
マナーも知りませんし、絶対にセシリア様の恥になります!」
私が必死に抵抗すると、彼女はデザイン画をパタンと閉じ、冷ややかな視線を向けた。
「誰が『踊れ』なんて言ったの?」
「へ?」
「貴女は私の飾り(アクセサリー)よ。私の後ろでニコニコと笑っていればいいの。
……と言いたいところだけど」
彼女は立ち上がり、私の手を取った。
「壁の花でいるだけじゃつまらないわね。
一曲くらいは付き合ってもらうわ。
さあ、立ちなさい。リハビリの時間よ」
◇
連れてこられたのは、屋敷の大広間だった。
シャンデリアが輝く広い空間に、私たち二人だけ。
「いい? ワルツの基本は――」
「は、はいッ! ワン、ツー、スリー……!」
私はガチガチに緊張しながら、ステップを踏もうとした。
右足を出して、左足を引いて。背筋を伸ばして、笑顔を作って。
失敗しちゃいけない。完璧に覚えなきゃ。
ガッ。
「あ痛っ!」
「……貴女、私の足を踏むつもり?」
セシリア様の呆れた声が降ってくる。
やってしまった。
「も、申し訳ありません! もう一度! 次こそは完璧に……!」
「はぁ……」
彼女は深いため息をつくと、私の肩を掴んで動きを止めた。
「あのね。貴女の悪い癖が出ているわよ」
「え?」
「『正しく踊ろう』としているでしょう。
ステップを暗記して、間違えないように計算して、私の動きを予測して……。
そんな顔、仕事中の侍女みたいで可愛くないわ」
図星だった。
私は「ダンス」というタスクを処理しようとしていたのだ。
「いいこと? 私とのダンスに、そんな小賢しい計算は不要よ」
セシリア様は私の腰に手を回し、グイと自分の方へ引き寄せた。
顔が近い。甘い香水と、ひんやりとした冷気が混ざり合う。
「力を抜きなさい。頭を空っぽにして。
貴女はただの操り人形。
糸を引くのは、この私よ」
彼女の指先から、冷たい魔力が流れ込んでくるのを感じた。
それは私の強張った筋肉を解きほぐし、思考を溶かしていく。
「委ねなさい。
私が右と言えば右へ。左と言えば左へ。
貴女は波に漂うクラゲのように、私の流れに乗ればいいの」
――トン、と。
彼女が踏み出した。
私は反射的に身体を固くしそうになったけれど、流れ込んできた魔力が「大丈夫」と囁いた気がした。
抵抗をやめる。
彼女の動きに、身を任せる。
スッ。
不思議な感覚だった。
自分で動いているはずなのに、まるで自動操縦のように身体が軽やかに動く。
足が勝手にステップを刻み、ドレスの裾がふわりと翻る。
「そう、いい子ね」
セシリア様が満足げに微笑む。
音楽はない。
けれど、彼女のリードそのものが旋律だった。
クルクルと回る。
目が回るような回転の中で、私に見えるのは、自信に満ちた彼女の深紅の瞳だけ。
「……すごいです。私、踊れてます……」
「当たり前でしょう。誰がリードしていると思っているの?」
彼女が指を鳴らすと、床から氷の結晶が花のように咲き乱れた。
シャラララ……と、氷同士がぶつかり合い、美しい音色を奏で始める。
即興の、氷のオーケストラ。
「綺麗……」
「前を見て。私だけを見ていればいいの。
そうすれば、貴女は転ばない。私が絶対に転ばせない」
その言葉は、ダンスのことだけではないように聞こえた。
この理不尽な世界で、私が生きていくための唯一の真理。
ああ、そうだ。
私はもう、自分で必死にハンドルを握らなくていいんだ。
この絶対的な主人が、舵を取ってくれる。
私はその助手席で、ただ景色を楽しんでいればいい。
(なんて……楽なんだろう)
私は全身の力を完全に抜いた。
まるで水中にいるような浮遊感。
セシリア様の腕の中は、世界で一番安全な場所だった。
気がつけば、私たちは一時間近くも踊り続けていた。
息も切れず、足も痛くない。
ただただ、楽しかった。
「……うん。合格ね」
氷の花が霧となって消え、セシリア様が足を止めた。
彼女の額にも、うっすらと汗が滲んでいる。
「当日は、この調子で私の『装飾品』として輝きなさい。
あの王子に見せつけてやるのよ。
私の人形が、どれほど美しく舞うかをね」
「はい、セシリア様」
私は深くお辞儀をした。
そこにはもう、失敗を恐れる社畜の姿はなかった。
あるのは、主人への絶対的な信頼と、少しのときめき。
来週の舞踏会。
それは「仕事」ではない。
私の大好きなご主人様が、世界に向けて私を自慢するための「晴れ舞台」なのだ。
そう思えば、胃の痛みは消え去り、代わりに胸の奥が熱くなるのを感じた。
たとえそこが敵地であろうと、この「氷のワルツ」がある限り、私たちは無敵だ。




