第十四話
その日の午後、屋敷は深い静寂に包まれていた。
「……少し、横になるわ」
昼食の後、セシリア様は気だるげにそう言うと、寝室の扉に手をかけた。
顔色が少し蒼い。
季節の変わり目特有の偏頭痛だろうか。彼女は時折、魔力の波に酔ったようにひどく体調を崩すことがある。
「誰も入れないで。物音一つ立てないでちょうだい。
……今の私は、針が落ちる音でも頭に響くの」
「かしこまりました。廊下の掃除も後回しにさせます」
「頼んだわよ」
扉が閉まり、鍵のかかる音がした。
私はその前に立ち、小さく息を吐いた。
私の仕事は「番人」だ。
彼女が安らかに眠れるよう、この廊下の平穏を死守しなければならない。
しかし、その静寂は、もっとも招かれざる客によって破られた。
コツ、コツ、コツ。
廊下の曲がり角から、規則正しい足音が近づいてくる。
使用人のような遠慮がちなものではない。
かといって、荒々しいわけでもない。
屋敷の主だけが許される、圧倒的に傲慢で、重い足音。
現れたのは、長身の初老の男性だった。
セシリア様と同じ白銀の髪をオールバックにし、冷徹なアイスブルーの瞳を持つ男。
この公爵家の当主であり、セシリア様の父親だ。
(……っ、うそ、今日いらしてたの!?)
私は反射的に背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
公爵様は私を一瞥もせず、真っ直ぐにセシリア様の部屋へと向かう。
「……セシリアはいるか」
低く、腹の底に響くような声。
有無を言わせぬ圧力。
彼はそのまま、私の横を通り過ぎてドアノブに手をかけようとした。
「お待ちください、閣下!」
私は震える声を絞り出し、その前に立ちはだかった。
「……なんだ?」
公爵様の足が止まる。
見下ろされるだけで、氷漬けにされそうな視線。
「セシリア様は現在、体調が優れず、お休みになられています。
誰の面会も謝絶したいと……」
「ほう。親である私に対してもか?」
「は、はい。どなた様であっても、と」
嘘ではない。
けれど、相手はこの家の絶対権力者だ。
普通の使用人なら、彼の不興を買うことを恐れて道を譲るだろう。
「どけ」
短く、鋭い命令。
空気がピリついた。
「……申し訳ございません。お通しできません」
私はドアノブを背中で隠すようにして、首を横に振った。
怖い。足が震えているのが自分でも分かる。
でも、今ドアを開ければ、光と音が一気に入室し、セシリア様の頭痛を悪化させる。
あの安らかな寝顔を守れるのは、私しかいない。
「……お前、自分が誰に口を利いているのか分かっているのか?」
「はい。この屋敷の主であられる公爵様です」
「ならば、その結果も想像がつくな?」
公爵様が一歩、距離を詰める。
圧倒的な魔力のプレッシャー。呼吸ができなくなるような重圧。
「……はい。処罰は、後ほど如何様にもお受けします」
私は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「ですが、今は退いていただけませんでしょうか。
セシリア様には、静寂が必要なのです」
沈黙。
永遠にも感じる数秒間。
公爵様の冷たい瞳が、私の目を、震える手を、そして背後の扉をじっと観察していた。
やがて。
「……フン」
彼は鼻で笑うと、くるりと踵を返した。
「……用件は、舞踏会の衣装についてだったが、急ぎではない。
寝かせておけばいい」
「あ……」
「それにしても」
公爵様は背中を向けたまま、独り言のように呟いた。
「あの我儘な娘が、随分と忠実な『犬』を拾ったものだ。
私への恐怖よりも、主人の安眠を優先するとはな」
それは、呆れているようにも、感心しているようにも聞こえた。
「精々、その忠義を忘れるな。
……舞踏会で恥をかかぬようにな」
それだけ言い残し、彼は再び重い足音と共に去っていった。
角を曲がり、その姿が見えなくなって初めて、私はへなへなと座り込んだ。
「はぁ……死ぬかと思った……」
心臓が早鐘を打っている。
冷や汗で背中がびっしょりだ。
その時。
背後の扉が、カチャリと開いた。
「……何よ。騒がしいわね」
眠そうな目を擦りながら、セシリア様が顔を出した。
どうやら、今の会話は聞こえていなかったらしい。
「す、すみません。少し、廊下で転んでしまいまして……」
「ドジね。怪我はない?」
「はい、大丈夫です」
私は慌てて立ち上がり、笑顔を作った。
公爵様が来たことを言えば、彼女は不機嫌になるかもしれない。
それに、私が勝手に彼女を守っただけのことだ。恩着せがましく言う必要もない。
「……ふーん」
セシリア様は不審げに私を見ていたが、ふと私の頭に手を伸ばした。
「……よく分からないけど、ありがと」
「え?」
「貴女が外にいてくれる気配がしたから、安心して眠れたわ。
……また、あとで起こして」
彼女は短くそう言うと、再び扉を閉めた。
廊下に一人残された私は、頭に残るその手の感触を確かめ、小さくガッツポーズをした。
公爵様の試験には、どうやら合格したらしい。
そして何より、ご主人様の「安心」を守りきった。
それだけで、今日の仕事は満点だ。




