第十五話
その夜、屋敷は戦場のような慌ただしさに包まれていた。
ただし、走っているのはメイドたちだけだ。
当の主役であるセシリア様は、優雅に椅子に座り、私の支度を監督していた。
「……違うわ」
彼女が扇子でピシャリと指示を飛ばす。
「そのリボンは右に三ミリずらして。
ネックレスは真珠じゃなくて、サファイア。私の瞳と同じ色のものを」
「は、はい! ただちに!」
メイドたちが悲鳴に近い声を上げながら、私の身体を弄り回す。
締め付けられるコルセット。
何層にも重ねられるレース。
髪には高価な香油がたっぷりと塗り込まれる。
私は、されるがままだった。
鏡の中に映るのは、もはや私ではない。
磨き上げられ、飾り立てられた、生きたフランス人形。
前世の社畜時代、鏡を見るのが嫌いだった。
死んだ魚のような目をした、疲れ切った女が映っていたから。
でも、今は違う。
「……うん、悪くないわ」
セシリア様が立ち上がり、私の頬に触れた。
「今の貴女は、この国で一番美しい『無駄遣い』よ」
彼女は満足げに微笑むと、自身のドレスを翻した。
純白の生地に、氷の結晶を模した銀糸の刺繍。
対して私は、夜空のような深いミッドナイトブルー。
並ぶと、まるで「氷の女王」と「夜の精霊」だ。
「行きましょうか。
私の最高傑作を、あの能率バカに見せつけてやるのよ」
◇
屋敷の外には、見たこともないほど豪奢な馬車が停まっていた。
黒塗りの車体に、公爵家の紋章。
引くのは四頭の白馬。
乗り込む際、エスコート役の従僕が手を差し伸べてくれたが、セシリア様がそれを手で制した。
「触らないで」
彼女は冷たく言い放つと、自ら私の手を取った。
「この子の手を取っていいのは、私だけよ」
従僕が青ざめて下がる中、私は彼女に引かれて馬車へと乗り込んだ。
ガタン、と車輪が動き出す。
密閉された空間。
向かい合わせの座席。
窓の外を流れる街明かりを見ていると、急に胃が痛くなってきた。
「……緊張してる?」
セシリア様が、退屈そうに頬杖をついて聞いてくる。
「は、はい。吐きそうです」
「どうして?」
「だって、王宮ですよ? 貴族だらけですよ?
もし私が粗相をして、セシリア様の顔に泥を塗ってしまったら……
そう思うと、胃酸が逆流して……」
私の悪い癖だ。
プレッシャーがかかると、すぐに最悪のシミュレーションをしてしまう。
失敗したらどうしよう。
怒られたらどうしよう。
そんな私の震える膝に、ふわりと何かが乗せられた。
セシリア様の手だ。
彼女は私の膝を、子供をあやすようにゆっくりと撫でた。
「あのね。勘違いしないで」
静かな声だった。
「貴女は、何も話さなくていいの」
「え?」
「挨拶もしなくていい。
愛想笑いもしなくていい。
誰かに話しかけられても、聞こえないフリをして私を見つめていればいいわ」
彼女は悪戯っぽく唇の端を吊り上げた。
「だって、貴女は『言葉を持たない人形』なんだから。
喋らない方が、ミステリアスで価値が高く見えるでしょう?」
――え。
それで、いいの?
前世のパーティーでは、「名刺交換」と「お酌」と「愛想笑い」が義務だった。
壁の花になっていると、「気配りが足りない」と怒られた。
なのに、ここでは「何もしないこと」が正解だなんて。
「私が守ってあげるから」
セシリア様は、私の手をぎゅっと握りしめた。
「貴女はただ、私の隣で、綺麗に咲いていればいい。
それ以外の雑音は、全部私が凍らせてあげる」
その言葉は、どんな胃薬よりも効果があった。
ああ、そうだ。
私はこの人のものなんだ。
全責任は、この最強の飼い主が負ってくれる。
なら、私は安心して「置物」になればいい。
馬車の揺れが心地よく感じ始めた頃。
窓の外が、一際明るく輝き始めた。
王宮だ。
煌々と輝くシャンデリアの光が、闇夜を焦がすように溢れている。
「着いたわよ」
馬車が止まる。
扉が開かれる。
光と、音楽と、人々のざわめきが、一気に押し寄せてきた。
「さあ、降りなさい」
セシリア様が先に降り、私に手を差し伸べる。
その表情は、もう屋敷での「甘い飼い主」ではない。
他を寄せ付けない、冷徹で美しい「氷の魔女」の顔だった。
「背筋を伸ばして。
世界で一番、贅沢な散歩をしましょう」
私はその冷たい手を取った。
震えは、もう止まっていた。
ここからは敵地。
けれど、私には最強の盾がある。
私たちはゆっくりと、光の渦巻く会場へと足を踏み入れた。




