第七話
「何もしない」という名の拷問を終え、私は屋敷の廊下を所在なげに彷徨っていた。
お腹はいっぱいだ。
身体は清潔で、いい匂いがする。
睡眠も十分にとった。
……だめだ、落ち着かない。
身体がムズムズする。
指先が震える。
これは、カフェイン切れの症状ではない。「労働欠乏症」だ。
長年、過労死寸前まで働かされ続けた私の肉体は、暇という猛毒に耐性がなかった。
何か生産的なことをしなければ。
誰かの役に立たなければ。
そうしないと、自分の存在価値が消えてしまいそうで怖い。
その時、廊下の向こうから、山のような洗濯物を抱えたメイドさんが歩いてくるのが見えた。
彼女は小柄で、前が見えづらそうにヨロヨロとしている。
これだ!
チャンスだ!
私は獲物を見つけたハイエナのごとく駆け寄った。
「か、代わります!!」
「ひぇっ!?」
突然飛び出してきた私に、メイドさんが悲鳴を上げる。
私は構わず、彼女の手から洗濯物の山をひったくろうとした。
「私、やります! 洗濯でも掃除でも得意なんです! 前世……じゃなくて昔、オフィスのトイレ掃除もお茶汲みも、シュレッダーのゴミ捨てまで全部一人でやってましたから!」
必死のアピールだ。
見てください、この手際の良さを。
私はただの無能な穀潰しじゃありません。ちゃんと使える労働力なんです!
「あ、あの、だめですっ! そんなことさせられません!」
「いいえ、やらせてください! タダ飯なんて食べてたらバチが当たります!」
「でも、お嬢様に怒られますぅぅ……!」
メイドさんと洗濯物を引っ張り合う。
私が勝てば労働の喜びが得られ、彼女が勝てば私の存在意義が失われる。
負けられない戦いだ。
「――何をしているの?」
凛とした、絶対零度の声が廊下に響いた。
ビクリ、と私とメイドさんの動きが止まる。
恐る恐る振り返ると、そこには仁王立ちしたセシリア様がいた。
その美しい瞳は、完全に据わっている。
「せ、セシリア様……」
「お、お嬢様! ち、違うんです! あの方が無理やり……!」
メイドさんが青ざめて弁明する。
セシリア様は冷ややかな視線を私に向け、カツカツとヒールを鳴らして近づいてきた。
「……私の言いつけを守れない悪い子ね」
彼女は扇子で私の手首をピシャリと叩いた。
「いっ」
「誰が雑用係の真似事をしていいと言ったのかしら?
貴女の手は、雑巾を絞るためにあるんじゃないわ」
彼女は私の手を掴み、自分の方へ引き寄せた。
そして、まじまじと指先を観察する。
「見てみなさい、このささくれ。乾燥してガサガサじゃない。
こんな手で私のドレスに触れられたら、生地が傷んでしまうわ」
……えっ、そこ?
私の労働意欲よりも、ドレスの生地の心配?
「い、いえ、でも! 私、何かお役に立ちたくて……!
このままじゃ、ただのペットになってしまいます!」
必死に訴える私に、セシリア様は「はぁ」と深いため息をついた。
まるで、言葉の通じない宇宙人を見るような目だ。
「……本当に、根っからの貧乏性ね。
いいわ。そんなに働きたいのなら、もっと『高尚な』仕事をあげる」
高尚な仕事。
その言葉に、私はゴクリと喉を鳴らした。
なんだろう。
やっぱり、スパイ活動? それとも、毒薬の調合?
あるいは、夜な夜な行われる闇の儀式の生贄係か?
「ついてらっしゃい。貴女に相応しい『地獄』を見せてあげるわ」
セシリア様は不敵に笑い、私の手を引いて歩き出した。
連れて行かれたのは、屋敷の二階にある重厚な扉の前だった。
ギィィィ……と、蝶番が軋む音を立てて扉が開く。
そこは、壁一面が本で埋め尽くされた、巨大な図書室だった。
古書の独特な匂いと、インクの香りが鼻腔をくすぐる。
高い天井まで届く本棚には、数え切れないほどの書物がぎっしりと並んでいた。
「うわぁ……」
圧倒されて声を漏らす私に、セシリア様は一冊の分厚い本を押し付けた。
ズシリと重い。凶器になりそうなハードカバーだ。
「これよ」
「これは……?」
「今日から貴女には、ここにある知識を頭に叩き込んでもらうわ」
彼女はサディスティックに口角を釣り上げた。
「肉体労働なんて下品なことは許さない。
代わりに、脳みそが沸騰するほどの『知的労働』を強いてあげる。
……どう? 辛いでしょう?」
知的労働。
つまり、勉強だ。
私は戦慄した。
ブラック企業時代、研修という名の洗脳合宿で、社訓を何万回も書かされた記憶が蘇る。
あるいは、分厚いマニュアルを一日で暗記させられた悪夢。
「勉強」とは、強要されるものであり、精神を削る苦行なのだ。
「こ、この本を、全部覚えるのですか……?」
「ええ、そうよ。一文字たりとも見逃すことは許さないわ」
セシリア様は、私をソファに座らせ、自分も優雅に隣に腰掛けた。
逃げ場はない。
私は震える手で、その分厚い本を開いた。
どんな難しい呪文が書いてあるんだろう。
あるいは、この国の複雑な法律か、歴史書か。
ペラリ。
……あれ?
そこに描かれていたのは、大きな挿絵だった。
勇敢な騎士と、可愛らしいドラゴン。
文字はほんの少しで、しかも大きく書かれている。
『むかしむかし、あるところに……』
これ、絵本?
「……あの、セシリア様?」
「何よ。読めないの?」
セシリア様は呆れたように眉を寄せると、私の膝の上にある本を覗き込んだ。
「仕方ないわね。特別に私が読んであげるから、耳の穴をかっぽじって聞きなさい」
そう言って彼女は、まるで子供に読み聞かせをするように、朗読を始めた。
「『騎士様は言いました。僕は君を守るために来たんだよ』……ほら、ここ。この単語は『守る』という意味よ。覚えなさい」
「は、はい……」
……待って。
これ、本当に拷問?
ソファはフカフカ。
部屋は適温。
隣には良い匂いのする美女。
そして、優雅な声での読み聞かせ。
これは「お勉強」という名の、ただのイチャイチャタイムではないのか?
「どう? 頭が痛くなってきたでしょう? 知恵熱が出るまで帰さないから覚悟しなさい」
彼女は満足げに笑っている。
どうやら本気で、これを「厳しい修行」だと思っているらしい。
私は混乱した。
この悪役令嬢、もしかして「教育こそが最大の罰」だと思っている意識高い系のサディストなのだろうか。
それとも、単に私に字を教えたいだけの、不器用な聖母なのだろうか。
(……声、綺麗だな)
彼女の読み上げる物語に耳を傾けながら、私はまたしても、心地よい眠気に襲われ始めていた。
肉体労働を禁じられ、代わりに与えられたのは「教養」という名の贈り物。
もしこれが、私を高度な人材に育て上げてからこき使う計画だとしても。
今の私には、この時間が、どんな休日よりも贅沢に思えて仕方なかった。




