第六話
チュン、チュン……。
小鳥のさえずりが、意識の深い底に届く。
ふわりと、頬を撫でる柔らかな陽光。
なんて穏やかな朝だろう。
天国とは、こういう場所を言うのかもしれない。
……ん?
陽光?
カッ、と目を見開く。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天井(天蓋付き)。
そして、カーテンの隙間から差し込む、あまりにも「高い位置」にある太陽の光。
――ヒュッ。
喉の奥で、空気が凍りついた。
明るい。明るすぎる。
どう見ても、朝の六時や七時の光ではない。
感覚的に、これはもう十時を回っている。
「あ、あ、あああ……ッ!!」
終わった。
人生が終わった。
寝坊だ。大遅刻だ。
始業時間はとっくに過ぎている。
携帯の着信履歴を見るのが怖い。上司からの『今どこ?』『舐めてんの?』という怒涛のメッセージ通知が、脳内で幻覚となって再生される。
いや、違う。
ここは会社じゃない。異世界だ。
私は社畜じゃなくて、奴隷になったんだった。
……って、もっとダメじゃん!!
奴隷が主人の起床時間より遅く起きる?
ありえない。万死に値する。
これは「減給」や「始末書」で済む話ではない。「鞭打ち」か「釜茹で」の刑だ。
私は弾かれたようにベッドから飛び起きた。
フカフカの布団を跳ね除け、パジャマ(最高級シルク)のまま床にスライディング土下座を決める。
「も、申し訳ございませんんんッ!! 寝坊しました! 大変な無礼を! どうかお許しください、殺さないで、いや殺すにしても一思いに……ッ!!」
額を絨毯に擦り付け、震える声で叫ぶ。
心臓が早鐘を打って破裂しそうだ。
「……何よ、朝から」
頭上から、不機嫌そうな声が降ってきた。
恐る恐る顔を上げると、そこには優雅に紅茶を啜るセシリア様の姿があった。
彼女は既に完璧に着替えを済ませている。
深紅のドレスに身を包み、窓辺のテーブルで読書を楽しんでいたらしい。
その視線が、床に這いつくばる私に向けられる。
「あ、あの……わ、私、寝過ごしてしまって……お仕事の時間なのに……」
「仕事? 何の話?」
「えっ」
セシリア様は不思議そうに小首をかしげた。
「私がいつ、『起きろ』と命じたかしら?」
「は……?」
「昨晩、言ったはずよ。『私が起こすまで寝ていなさい』と。
貴女、私の命令を聞いていなかったの?」
……あ。
言われた。確かに言われた。
「夢の中で余計なことを考えず、泥のように眠れ」と。
「で、でも! 奴隷が主人より遅く起きるなんて……!」
「ふん、常識に囚われたつまらない考えね」
彼女はカチャン、とティーカップをソーサーに戻した。
「私の玩具が睡眠不足で目の下にクマを作っているなんて、見ていて不愉快なのよ。
十分に休ませて、最高コンディションに仕上げてから遊ぶのが私の流儀。
……さあ、顔を洗いなさい。朝食の時間よ」
パチンと指を鳴らすと、待機していたメイドたちがワゴンを押して入ってきた。
そこに乗っていたのは、私の想像する「奴隷の朝食(固いパンと水)」ではなかった。
焼きたてのパンケーキだ。
それも、三段重ねのタワー状になっている。
上には雪山のように盛られたホイップクリームと、宝石のように輝くイチゴやベリーたち。
そして、黄金色のアカシア蜂蜜が、とろりと惜しげもなくかけられている。
「……え、これ、私の?」
「そうよ。貴女みたいなガリガリの棒切れ、見てるだけで貧乏くさいわ。
さっさと糖分と脂肪を蓄えなさい」
命令口調で言われたが、内容は「お腹いっぱいスイーツを食べろ」だった。
拷問だ。これは間違いなく、糖尿病にしてじわじわと身体を蝕む作戦だ。
なんて恐ろしい……!
私は震える手でフォークを握り、パンケーキに入刀した。
ナイフを入れた感触がない。
雲だ。これは雲を切っているのか?
一口、食べる。
――ふわしゅわっ。
口に入れた瞬間、パンケーキが消えた。
噛む必要すらない。
卵の優しい風味と、バターのコク、そして蜂蜜の濃厚な甘さが、口の中でワルツを踊っている。
ホイップクリームは甘さ控えめで、ベリーの酸味が絶妙なアクセントになっていた。
「んんっ……!!」
美味しい。
美味しすぎて、脳が溶ける。
前世の朝食なんて、駅の売店で買ったパサパサの栄養補助食品を、満員電車の中で水で流し込むだけだったのに。
こんな優雅な朝が、この世に存在したなんて。
気付けば、皿の上は空っぽになっていた。
満腹感と幸福感で、思考が停止する。
ダメだ、このままでは本当に「ただ飯食らいのペット」になってしまう。
危機感を覚えた私は、ガタリと椅子から立ち上がった。
「ご、ご馳走様でした! あの、お皿をお下げします!」
「は?」
「掃除でも洗濯でも、何でもお申し付けください! 働かざる者食うべからず、ですよね!?」
私はメイドさんの手からお盆を奪おうとした。
しかし、すぐにセシリア様の冷徹な声がそれを遮った。
「やめなさい」
「ひっ」
「鬱陶しいわね。チョロチョロと動き回らないでちょうだい」
彼女は扇子で私の動きを制した。
「勘違いしているようだけど、貴女の仕事は『家事』じゃないわ」
「えっ……で、でも、奴隷ですし……」
「私の屋敷には、優秀な使用人が山ほどいるの。
素人の貴女が皿を割ったり、埃を舞い上げたりするのは迷惑よ」
ぐうの音も出ない正論だ。
でも、じゃあ私は何をすれば?
ただ食べて寝るだけなんて、そんなの「ニート」じゃないか。
社畜としてのプライドが、無職になることを拒絶している。
「あの、じゃあ、何をすれば……」
「そうね……」
セシリア様は少し考え込み、そして悪魔的な笑みを浮かべた。
「今日の貴女の仕事は、『そこでお茶を飲んで座っていること』よ」
「……はい?」
耳を疑った。
座っていること?
それが仕事?
「このお茶、最高級の茶葉を使っているの。
冷めないうちに飲み干して、その香りを楽しみなさい。
その間、一歩も動くことは許さないわ。いいわね?」
なんという……!
なんという残酷な命令だろうか。
「何もしない」
それは、ワーカーホリックにとって最大の苦痛。
手を動かしていないと不安になる。
メールをチェックしていないと落ち着かない。
「生産性のない時間」に対する罪悪感で、胃がキリキリと痛む。
それを分かった上で、彼女は私に「休息」という名の拷問を強いているのだ。
「ううっ……分かりました……」
私は涙目で、ソファに座り直した。
目の前には、湯気を立てる香り高い紅茶。
窓の外には、手入れの行き届いた美しい庭園。
何もするなと言われた。
ただ、この贅沢な時間を享受しろと。
(……怖い。何もしないのが、こんなに怖いなんて)
ブラック企業で狂わされた私の精神は、この「平穏」という名の猛毒に、激しく拒絶反応を示していた。
そんな私の苦悶の表情を見て、セシリア様は楽しそうにクスクスと笑った。
「あらあら、随分と辛そうね。
いい気味だわ。せいぜい退屈という地獄に苦しみながら、丸々と太りなさい」
そう言って彼女は、再び読書に戻る。
意地悪だ。
本当に、この人は悪役令嬢だ。
人の一番苦手なことを強要して、それを楽しんでいるんだから。
……でも。
紅茶の温かさが胃に染み渡ると、張り詰めていた神経が、ぷつりと緩む音がした。
窓から差し込む日差し。
ページをめくる音。
穏やかな時間。
ああ、どうしよう。
この地獄(天国)、慣れてしまったら、もう二度と元の世界には戻れない気がする。




