第五話
地獄(?)のファッションショーが終わった頃には、窓の外はすっかり夜の帳が下りていた。
鏡の中にいるのは、誰だ?
豪奢なレースとフリルに彩られた、最高級のシルクのネグリジェ。
艶やかにブラッシングされた髪。
磨き上げられた肌からは、ほのかに甘い香油の匂いが漂っている。
まるで、どこかの国の姫君だ。
あるいは、生贄の祭壇に捧げられる前の、最も清らかな巫女か。
「……ふん、まあ及第点ね」
セシリア様が満足げに頷く。
彼女は私の顎をくい、と持ち上げ、値踏みするように目を細めた。
「薄汚いドブネズミも、磨けば光るものね。これなら私の部屋に置いても、景観を損ねることはないわ」
――え?
今、なんと?
私の部屋に置く?
まさか、同じ部屋で寝るつもりなのか。
奴隷といえば、馬小屋の隅か、あるいは地下牢の冷たい石床で雑魚寝するのが相場ではないのか。
「ついてらっしゃい。貴女の『保管場所』へ案内するわ」
保管場所。
その響きに、私は再び背筋を凍らせた。
そうか、やはり檻か。
綺麗に着飾った人形として、ガラスケースの中にでも閉じ込められるのかもしれない。
立っているのもやっとの狭い箱の中で、観賞用として一生を終えるのだ。
戦々恐々としながら、私はセシリア様の後ろをついていく。
長い廊下を渡り、重厚な扉が開かれた。
「――ここよ」
通された部屋を見て、私は息を飲んだ。
広い。
前世で住んでいた1Kのアパートが、四つは入るであろう広さだ。
床には雲の上を歩くような感触の絨毯が敷き詰められ、壁紙はシックなベージュで統一されている。
暖炉では薪がパチパチと爆ぜ、部屋全体を春の日溜まりのような暖かさで包み込んでいた。
そして何より、部屋の中央に鎮座する、アレだ。
天蓋付きの、キングサイズベッド。
レースのカーテンが優雅に垂れ下がり、純白のシーツは皺ひとつなくピンと張られている。
その上には、見るからにフカフカの羽毛布団と、いくつものクッションが山のように積まれていた。
「……あの、私の檻はどこでしょうか」
「は?」
キョロキョロと部屋の隅を探す私に、セシリア様が怪訝な顔をする。
「何を言っているの? 目の前にあるじゃない」
彼女が指差したのは、そのキングサイズベッドだった。
「……ここが?」
「そうよ。貴女は私の所有物なのだから、私の目の届くところに置いておくのは当然でしょう?」
そう言って、彼女は隣にあるもう一つのベッド(さらに巨大で豪華だ)に腰掛けた。
どうやらここは、セシリア様の寝室らしい。
そして、その隣に用意された「予備のベッド」こそが、私に与えられた監獄というわけだ。
「さあ、入りなさい。まさか、私が『寝ろ』と命じているのに、逆らうつもり?」
逆らうなど、とんでもない。
私は恐る恐る、その真っ白な処刑台……もとい、ベッドに近づいた。
靴を脱ぎ、足を乗せる。
ずぶり。
足首まで沈み込むような柔らかさに、平衡感覚が狂いそうになる。
そのまま、身体を横たえた。
――ふわぁっ……。
声にならない吐息が漏れた。
なんだこれは。
これは本当に物質なのか? 液体ではないのか?
背中全体を優しく受け止め、包み込み、重力を忘れさせるような浮遊感。
布団を掛ければ、その軽さと温かさに驚愕する。
最高級の羽毛とは、空気の層を纏うことと同義なのか。
(……温かい)
前世の記憶が蘇る。
終電を逃し、会社の固いパイプ椅子を三つ並べて作った簡易ベッド。
あるいは、デスクの下に段ボールを敷いて、コートを被って仮眠を取った冬の夜。
駅のホームのベンチで、寒さに震えながら始発を待った朝。
私の睡眠は、常に「気絶」だった。
安らぎなどなかった。
いつ携帯が鳴るかという恐怖と、明日の納期へのプレッシャーで、心臓はずっと早鐘を打っていた。
なのに、今はどうだ。
静かだ。
電話の音も、上司の怒鳴り声も、キーボードを叩く音もしない。
ただ、暖炉の薪が爆ぜる音だけが、優しく鼓膜を揺らす。
「……あ、あの、セシリア様」
「なによ。まだ文句があるの?」
隣のベッドで本を広げていたセシリア様が、不機嫌そうにこちらを見た。
「明日は、何時に起きればよろしいでしょうか。朝食の準備や、お掃除の仕事は何時から……」
奴隷として買われた以上、労働は義務だ。
朝四時起きか? それとも徹夜で見張り番か?
指示を仰ぐ私に、セシリア様は心底呆れ果てたような顔をした。
「……本当に、骨の髄まで卑しい考えが染み付いているのね」
彼女はパタンと本を閉じ、冷ややかに言い放った。
「いい? よくお聞きなさい。
貴女の仕事は、その貧相な身体を治すことよ。
目の下にクマを作った薄気味悪い奴隷なんて、連れ歩くだけで私の美意識に関わるわ」
彼女は部屋の明かりを少し落とし、間接照明の柔らかな光だけを残した。
「私が『起きろ』と言うまで、目を開けることは許さない。
夢の中で余計なことを考えず、泥のように眠りなさい。
これは命令よ。……いいわね?」
命令。
そう、これは業務命令なのだ。
「寝ろ」という命令。
「休め」という強制。
もし従わなければ、悪役令嬢の不興を買う。
だから私は、全力で眠らなければならない。
「……はい、かしこまりました」
瞼を閉じる。
温かい闇が、すぐに私を迎えに来た。
今まで、「眠ること」は罪悪だった。
皆が働いているのに、自分だけ休むなんて。
もっと頑張らなきゃいけないのに、寝ている暇なんてないのに。
そうやって自分を追い詰めて、削って、最後は線路に落ちた。
でも、今は違う。
この絶対的な支配者が、私に「眠ること」を許してくれた。
いや、強要してくれた。
(……ありが、とう……ございます……)
意識が溶けていく直前、目尻から熱いものが伝い落ちて、枕を濡らした。
殺されるための準備かもしれない。
太らせてから食べるつもりかもしれない。
それでもいい。
今日この一日、私は人間らしい扱いを受けた。
それだけで、前世の何十年分もの苦しみが、少しだけ報われた気がしたのだ。
スゥ、スゥ、と。
隣のベッドから聞こえる少女の寝息が、思いのほか安らかであることを確認して。
史上最恐の悪役令嬢セシリアは、小さな声で呟いた。
「……おやすみ。変な生き物」
その声が、驚くほど優しい響きを持っていたことを。
深い眠りに落ちた私は、知る由もなかった。




