第四話
案内されたのは、食堂というにはあまりにも広大すぎる空間だった。
高い天井には煌びやかなシャンデリアが鎮座し、壁には見るからに高価そうな絵画がずらりと並んでいる。床に敷き詰められた絨毯は、私の足がくるぶしまで沈み込むほどに分厚い。
その中央に置かれた、長い長いマホガニーのテーブル。
まるで王族の晩餐会か、あるいは企業の重役会議でも始まりそうなその場所に、ポツンと二人きり。
上座に優雅に腰掛けるのは、この屋敷の主、悪役令嬢セシリア様。
そしてその遥か彼方、下座の端に座らされているのが、元社畜にして現奴隷の私だ。
「……」
沈黙が痛い。
針のむしろとはこのことか。
先ほど、極上の泡風呂でふやけるほど身体を磨かれた私は、清潔な(とはいえシンプルな)白いワンピースを着せられていた。
汚れは落ちた。臭いも消えた。
つまり、商品としての「洗浄」工程は完了したということだ。
ならば次は何か。
出荷か? 解体か? あるいは実験台か?
私の脳内では、ブラック企業時代に培った最悪の事態を想定するリスクマネジメント能力が、けたたましく警報を鳴らしていた。
タダより高いものはない。
理由のない厚遇は、破滅への前触れだ。
「遅い」
氷点下の声が響く。
セシリア様が不機嫌そうに、細い指先でテーブルを叩いた。
「さっさと運びなさい。この痩せっぽちが餓死したら、私の寝覚めが悪くなるわ」
「ただいま」
恭しく礼をした執事が、銀色のドーム状のカバー――クロッシュを被せた皿を、私の目の前に音もなく置く。
来た。
審判の時だ。
中に入っているのは何だ?
私の絶望を煽るための、生きた虫か? それとも腐った残飯か?
執事が手袋をはめた手で、そのカバーを恭しく持ち上げる。
「――どうぞ」
パカッ。
その瞬間、暴力的なまでの香りが爆発した。
「……は?」
予想していた腐臭でも、生臭さでもない。
それは、焦がしバターとガーリック、そして芳醇な赤ワインソースが絡み合った、脳髄を直接殴りつけてくるような「旨味」の香りだった。
ジュウゥゥゥゥゥ……。
熱々の鉄板の上で、分厚い肉塊が音を立てている。
表面には美しい焼き色がつき、その断面からは宝石のようなロゼ色の肉汁がじわりと滲み出していた。
付け合わせには、鮮やかな彩りの温野菜と、ホクホクのマッシュポテト。
ステーキ。
それも、スーパーの半額シールが貼られた硬い輸入牛ではない。
前世で接待の時に客にだけ食べさせて、自分は横で指をくわえて見ていただけの、あの超高級黒毛和牛クラスの代物だ。
「……あ、あの」
「何をしているの? 手が止まっているわよ」
呆然とする私に、セシリア様が冷ややかな視線を突き刺す。
彼女の手元には、同じものが置かれているわけではない。彼女はただ、クリスタルグラスに注がれた赤い液体(おそらく最高級のヴィンテージワイン)を揺らしているだけだ。
私だけ?
奴隷の私だけが、こんなご馳走を?
……罠だ。
これは間違いなく、罠だ。
状況証拠が揃いすぎている。
考えられる可能性は二つ。
一つ、これが死刑囚に振る舞われる『最後の晩餐』であること。
二つ、この肉自体に、遅効性の猛毒が仕込まれていること。
「まさか、毒でも入っていると疑っているのかしら?」
ビクリと肩が跳ねた。
見透かされている。この悪役令嬢、人の心が読めるのか。
「そ、そんな滅相もございません……! ただ、私のような価値のない奴隷が、貴族様よりも先に、このような高価なものを頂いていいのかと……」
震える声で精一杯の謙遜(と命乞い)を口にする。
すると、セシリア様は呆れたようにため息をつき、長い睫毛を伏せた。
「勘違いしないでちょうだい。別に、貴女への慈悲で与えているわけではないわ」
彼女はサディスティックに口角を釣り上げ、残酷な宣告を下すように言った。
「だって、そんな枯れ木のような体じゃ、虐め甲斐がないでしょう?」
ヒッ、と喉の奥で悲鳴が漏れた。
「指一本で折れてしまいそうな玩具なんて、つまらないわ。
壊すなら、徹底的に、長く、じっくりと楽しみたいもの。
だから――」
彼女の瞳が、獲物を狙う蛇のように細められる。
「せいぜい栄養をつけて、丈夫になりなさい。私の暇つぶしに長く付き合ってもらうためにね」
なんという悪魔的発想……!
つまり、「今すぐ殺すのは惜しいから、耐久度を上げてからじっくり嬲り殺しにする」という宣言だ。
ブラック企業で言うところの、「定額働かせ放題プラン」への強制加入である。
死ぬまで働かせるために、まずは健康診断を受けさせるようなものだ。合理的すぎて涙が出る。
「さあ、お食べなさい。残したら許さないわよ」
「は、はいっ……!」
拒否権はない。
食べなければ、今ここで「虐め甲斐がない」と判断されて処分されるだけだ。
私は覚悟を決めた。
どうせ死ぬなら、満腹で死にたい。
震える手でナイフを入れる。
スッ……。
驚くほど抵抗がない。まるで豆腐でも切っているかのような柔らかさだ。
切り分けた肉片をフォークで刺し、恐る恐る口へと運ぶ。
あむ。
――カッ。
瞬間、目を見開いた。
口の中に雷が落ちたかと思った。
噛む必要なんてなかった。
舌の上に乗せた瞬間、体温で上質な脂が解け出し、濃厚な肉の旨味がダムの決壊のように溢れ出したのだ。
噛みしめれば、香ばしい肉汁が口内を満たし、ガーリックのパンチが食欲中枢を直接殴りつけてくる。
(……おいしい)
嘘だろ。
なんだこれ。
こんな食べ物が、この世に存在していいのか。
前世の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
深夜三時のオフィス。キーボードの隙間に落ちたパン屑。
生きるために流し込んだ、味のしないウィダー的なゼリー。
上司に奢らされた、油でギトギトの安い居酒屋の唐揚げ。
食事とは、私にとって「給油」でしかなかった。
味わう余裕なんてなかった。楽しむ権利なんてないと思っていた。
それが、どうだ。
奴隷になった今、死ぬ直前の今、こんなにも温かくて美味しいものが食べられるなんて。
「……う、ぐすっ……」
気づけば、視界が滲んでいた。
ポロポロと、大粒の涙が頬を伝ってテーブルクロスに落ちる。
「う、ううう……おいしい……おいしいですぅ……!」
毒が入っていたって構わない。
これほどの幸福を味わえるなら、もうこのまま死んでもいい。
私はなりふり構わず、肉を口に運んだ。
マッシュポテトの優しさに癒やされ、温野菜の甘みに驚愕し、また肉の旨味に溺れる。
そんな私の醜態を、セシリア様は頬杖をついて眺めていた。
「あらあら、汚らしい食べ方。まるで何日も餌を与えられていない野良犬ね」
クスクスと、彼女が悪意たっぷりに笑う。
その言葉は、確かに侮蔑に満ちていた。
けれど、今の私にはその罵倒すらも心地よいBGMに聞こえてしまう。
だって、野良犬にこんな最高級ステーキをあげる人がどこにいる?
完食する頃には、私の腹部は見たこともないほど膨れ上がり、心はかつてないほどの充足感で満たされていた。
もう動けない。
このままここで眠って、夢の中で処刑されたい。
しかし、悪役令嬢の「飼育」は、食事だけでは終わらなかった。
「満たされた顔をするのは早いわよ。食事の次は、身だしなみね」
セシリア様がパン、と手を叩くと、音もなく数人のメイドが現れた。
彼女たちが押してきたのは、巨大なハンガーラックだ。
そこには、目がくらむような極彩色の布地がずらりと並んでいた。
「私の横を歩くなら、そんな貧相な白ワンピなんて許さないわ。これを着なさい」
彼女が手に取って投げ渡してきたのは、深い藍色の上質な生地に、星屑のように細かな宝石が散りばめられたドレスだった。
光を受けてキラキラと輝くそれは、どう見ても平民が一生かかっても買えない代物だ。
「えっ……こ、これを、私が……?」
「そうよ。貴女は私の所有物なのだから、最高級のパッケージで包んでおくのは当然でしょう?」
セシリア様は不敵に笑い、私の痩せた肩にそのドレスを強引にあてがった。
その瞳は、新しい着せ替え人形を手に入れた子供のように、残酷な輝きを放っている。
「さあ、ファッションショーの始まりよ。
みすぼらしいその姿がマシになるまで、今日は寝かさないから覚悟しなさい」
……どうしよう。
泡風呂、ステーキ、そして宝石付きのドレス。
この「奴隷生活」とやらは、私が知っているどの「正社員生活」よりも、遥かに高待遇な気がする。
もしかしてこの悪役令嬢、拷問の天才なのだろうか。
幸せで骨抜きにしてから地獄へ突き落とすつもりなのかもしれない。
私はドレスを抱きしめながら、恐怖と満腹感の間で身震いした。
ブラック企業の社畜根性が染み付いた私には、この「優しさ」という名の劇薬が、何よりも恐ろしかったのだ。




