第四十四話
翌朝、私は重たい左腕の感覚で目を覚ました。
目を開けると、視界いっぱいに銀色の髪があった。
アイリスが、私の腕を枕にして、猫のように丸まって眠っていた。
規則正しい寝息。長く伸びた睫毛。
昨日までの「後輩」とも「機械」とも違う、無防備な「恋人」の距離感。
(……やっちゃったんだな)
後悔はない。
ただ、胸の奥がむず痒いような、不思議な充足感があった。
「……んぅ」
アイリスが身じろぎし、うっすらと目を開けた。
ガラス玉のような瞳が私を捉え、数秒後、ボッと音が出そうなほど赤くなった。
「……おはようございます、先輩」
彼女は布団を頭まで被り、モゴモゴと言った。
「現在の体温、平熱より〇・八度上昇。
心拍数、安定しません。
……昨夜のデータが、重すぎて……処理落ちしています」
「無理に処理しなくていいよ。
忘れないでいてくれたら、それで」
私が布団の上から頭を撫でると、彼女は「……はい」と小さく答えて、さらに私の懐に潜り込んできた。
甘い。
この埃っぽい隠れ家が、世界で一番安全なシェルターに思えるほど、私たちは満たされていた。
カタカタ……。
その時、窓ガラスが揺れる音がした。
風だ。
昨日までの湿った雨風とは違う、乾いた、冷たい北風。
古いサッシの隙間から、ヒュウという音と共に冷気が入り込む。
アイリスの体が、ピクリと強張った。
「……嫌な、音です」
彼女は布団から顔を出し、揺れる窓を見つめた。
「風向きが変わりました。
この風は……王宮(北)から吹いています」
◇
昼前、セシリア様が帰ってきた。
手には紙袋いっぱいの食材と、朝刊を持っていた。
「ただいま。
……あら、随分と空気が『濃密』ね」
彼女は部屋に入るなり、私とアイリスを交互に見てニヤリと笑った。
アイリスが私の後ろに隠れる。完全にバレている。
「ふふ、若くて結構。
でも、少しは気を引き締めなさい。
外は、ちょっときな臭くなってきたわよ」
セシリア様はテーブルに朝刊を広げた。
「これを見て」
指差された紙面には、デカデカと王子の肖像画が載っていた。
相変わらずの美貌だが、その瞳は氷のように冷たい。
『建国記念舞踏会にて、王太子殿下、重大発表へ』
『次世代型・完全自律人形のお披露目か?』
見出しの文字が、私の目に飛び込んできた。
「……次世代型?」
私が呟くと、アイリスが顔を蒼白にして新聞を覗き込んだ。
「……X-02(クロス・ツー)……開発コード『イヴ』。
まさか、もう完成していたなんて」
彼女の声が震えている。
「私の運用データを基に、感情回路を完全に排除した新型です。
迷わず、疲れず、絶対にエラーを起こさない……殿下の理想そのもの」
アイリスは自分の腕を抱いた。
昨夜、私が愛したその柔らかい腕を、彼女自身が「旧型」の証であるかのように強く掴む。
「……殿下は、本気です。
私という失敗作を塗り替えるために、完璧な正解を用意したんです」
セシリア様が、冷めたコーヒーをすすりながら言った。
「それだけじゃないわ。
街で妙な噂が流れているの。
『聖女が凶暴な欠陥品を連れて逃走中。発見次第、通報せよ』ってね」
指名手配。
いや、それは「回収命令」に近い響きだった。
ヒュオオオ……。
また、窓が大きく軋んだ。
隙間風がテーブルの上の新聞をめくり、王子の顔を歪ませる。
隠れ家の鍵は錆びついている。
窓ガラスは薄い。
この幸せな密室が、外の世界の暴力によってこじ開けられるのは、もう時間の問題だった。
「どうする? アイリス」
セシリア様が試すように尋ねた。
「新型が出るなら、貴女はもう用済みよ。
このままここで、一生隠れて暮らす?」
アイリスは俯いた。
恐怖。
自分よりも優れた「後継機」への、本能的な敗北感。
けれど、彼女は私の手を握ると、顔を上げた。
その瞳は揺れていたが、光は失われていなかった。
「……いいえ。
比べられるのは怖いです。
でも……あの人の『完璧』がどれほど退屈か、教えてあげなくちゃいけません」
彼女の手のひらに、じっとりと冷や汗が滲んでいるのが分かった。
強がりだ。
でも、守りたくなるほど愛おしい強がりだった。
「準備をしましょう」
私は彼女の手を強く握り返した。
「最高に人間臭い、泥臭い戦いを仕掛けるために」
風は冷たい。
けれど、繋いだ手の熱だけは、確かにそこに残っていた。




