第四十三話
窓の外は、しとしとと冷たい雨が降り続いていた。
隠れ家の中は薄暗く、静かだった。
セシリア様は「ちょっと野暮用」と言って、昼過ぎに出て行ったきり戻らない。あの人のことだから、王都の裏社会で何やらきな臭い準備でもしているのだろう。
つまり、今この古い屋敷には、私とアイリスの二人きりだった。
「……先輩」
ソファの隣で、アイリスが膝を抱えて座っている。
彼女は、私が貸した大きめのスウェットを着ていた。ぶかぶかの袖から出る指先が、所在なげに自身の膝を弄っている。
「セシリア様、遅いですね」
「そうだね。まあ、あの人のことだから心配ないよ」
私は努めて平静を装いながら、読みかけの本に視線を落とした。
だが、文字が全く頭に入ってこない。
意識してしまう。
雨音にかき消されそうなほど静かな、アイリスの呼吸音。
そして、彼女から漂う、風呂上がりの石鹸と、微かなミルクのような甘い匂い。
以前の「完璧な侍女」だった頃は、彼女はただの美しい家具のようだった。
けれど今は違う。
泣いて、笑って、二日酔いで苦しんで。
その身体には、生々しい「熱」が宿っていることを、私はもう知ってしまっていた。
「……あの、先輩」
アイリスが、もじもじと体を寄せてきた。
「なんだか、落ち着きません。
この部屋、静かすぎて……心拍数が、安定しないのです」
彼女の肩が、私の腕に触れた。
薄い布越しに伝わる体温が、やけに熱い。
「……寒い?」
「いえ、寒くは……ただ、胸の奥がザワザワして。
誰かに、触れていないと、不安で……」
彼女は、上目遣いで私を見た。
その瞳は、バカンスの夜に見た、あの無防備な色をしていた。
完全に油断しきった、飼い主に甘える小動物の目。
――プツン。
私の中で、何かが切れる音がした。
先輩としての理性とか、セシリア様への義理とか、そういうものが全部、どうでもよくなった。
「……アイリス」
私は本を置き、彼女の肩に手を回した。
「ひゃっ」
彼女が小さく声を上げた。
けれど、逃げようとはしない。むしろ、私の腕の中にすっぽりと収まろうとするように、体を預けてきた。
「……先輩?
あの、心音が……すごく速いです。
私のセンサーが誤作動を起こしているのでしょうか?」
彼女の耳が、私の胸に押し当てられている。
「違うよ。
私の心臓が、うるさいだけ」
私はもう片方の手で、彼女の顎を持ち上げた。
至近距離で見る彼女の顔は、整いすぎていて、やっぱり人形めいている。
でも、その唇は微かに震えていて、頬は朱に染まっていた。
「……キス、するよ」
私は宣言した。
これは命令じゃない。確認だ。
アイリスは目を見開き、数秒フリーズした後、コクンと小さく頷いた。
「……了解、しました」
その声が震えていたのが、可愛くて、愛おしくて。
私は彼女の唇を塞いだ。
以前、セシリア様がふざけてしたような、軽いキスじゃない。
もっと深く、彼女の息を奪うような口づけ。
「ん……っ、ふぅ……!」
アイリスの喉から、甘い声が漏れた。
彼女の手が、私の背中の服をぎゅっと握りしめる。
唇を離すと、彼女はとろんとした目で、酸素を求めて浅い呼吸を繰り返していた。
「……あつ、い……です。
先輩、思考回路が……ショートしそうです」
「まだ、これからだよ」
私は彼女をソファに押し倒した。
埃っぽい匂いと、彼女の甘い匂いが混じり合う。
スウェットの裾から手を差し入れると、彼女の肌は驚くほど滑らかで、そして熱かった。
「ひゃうっ!
そ、そこは……整備マニュアルには……!」
「マニュアルなんてないよ。
ここは王宮じゃない。ただの、女の子の部屋だもん」
私がくびれた腰を撫でると、彼女はビクンと背中を跳ねさせた。
「……あ、だめ……です。
そんな風に触られたら……私、変な声が……」
「出していいよ。誰も聞いてない」
私は彼女の耳元に囁き、耳たぶを甘噛みした。
「んあっ……!
先輩……いじわる、です……っ」
アイリスは涙目になりながら、それでも私の首に腕を回してきた。
かつて「鉄仮面」と呼ばれた少女は、今、私の下で熱に浮かされ、快楽に翻弄されている。
その姿は、どんな精巧な人形よりも美しく、そして人間臭かった。
私たちは雨音が止むまで、薄暗い部屋のソファの上で、互いの熱を確かめ合った。
それは、セシリア様にも秘密の、私たちだけの「共犯」の儀式だった。




