第四十二話
翌朝。
目を覚ますと、部屋の中には金色の粉が舞っていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、空気中を漂う埃を照らし出しているのだ。
王宮なら、これは「怠慢」の証拠であり、即座に始末書ものだ。
けれど、この古い隠れ家では、それさえも穏やかなインテリアの一部に見えた。
「……起きた?」
キッチンの方から、トントンという包丁の音が聞こえてくる。
私が重い瞼を擦りながらリビングへ行くと、アイリスが古いエプロンをつけて立っていた。
「おはよう、先輩。
……勝手に、戸棚のスープ缶を開けました。賞味期限はギリギリですが」
彼女が振り返る。
そのエプロンは少しサイズが大きく、肩紐がずり落ちそうになっている。
王宮の、あの針金が入ったようにピシッとした制服とは違う、くたびれた綿の感触。
「……掃除、しようか」
私が言うと、彼女は少し困ったように眉を下げた。
「はい。でも……どこから手をつければいいのか。
王宮のマニュアルには『部屋の隅から時計回りに』とありますが、ここは……隅にも真ん中にも、思い出がいっぱいで」
彼女の指差す先には、誰かが読みかけで放置した本や、少し欠けた花瓶、色あせた絵画が無造作に置かれている。
それは「ゴミ」ではなく、かつて誰かがここで生きていた「痕跡」だった。
◇
私たちは窓を全開にし、古いレコードをかけた。
ノイズ混じりのジャズが流れる中、パタパタとハタキをかける。
「くしゅんっ!」
アイリスが可愛らしくくしゃみをした。
鼻の頭に、黒い煤がついている。
「……非効率です。
埃は払っても、また舞い降りてきます。
これでは、永遠に『完了』しません」
「いいのよ、完了しなくて」
セシリア様が、古いソファに寝そべりながら言った。
「生活ってのはね、終わらない掃除みたいなものよ。
綺麗にして、汚して、また綺麗にする。
その繰り返しを楽しむの」
アイリスはハタキを止めて、宙を舞う埃を見つめた。
「……汚れることを、楽しむ……」
彼女は、棚の奥から見つけた一枚の皿を手に取った。
縁が少し欠けていて、細かなヒビが入っている。
「王宮なら、これは廃棄処分です。
傷がついた道具に、価値はありませんから」
彼女の声は静かだった。
「でも、不思議です。
この傷が……なんだか、この皿が頑張ってきた証に見えて。
捨てるのが、惜しい」
アイリスは、その欠けた皿を丁寧に布で拭き、一番目立つテーブルの中央に置いた。
「私も……欠けていますから。
仲間ですね」
彼女は皿に向かって、優しく微笑んだ。
それは、自分自身の傷を受け入れたような、穏やかな笑顔だった。
◇
昼食は、アイリスが作った具沢山のスープと、近所のパン屋で買ってきた硬いバゲット。
テーブルクロスはない。
カトラリーも揃っていない。
椅子もギシギシと音を立てる。
でも、湯気の向こうにある二人の顔は、どんな晩餐会よりも鮮明だった。
「いただきます」
カチャン、とスプーンが皿に当たる音。
スープは少し味が薄くて、野菜の切り方も不揃いだった。
王宮のシェフが見たら卒倒するだろう。
「……どうですか?」
アイリスが不安そうに私を見る。
「ん、美味しい。
すごく……優しい味がする」
嘘じゃない。
完璧に計算された味ではなく、誰かのために作った、不器用な体温の味がした。
「そうですか……。
レシピ通りではないので、再現性は低いですが」
アイリスはスプーンを口に運び、ほぅ、と息を吐いた。
「……あったかい」
彼女は窓の外を見た。
灰色の王都の空は、まだ曇っている。
けれど、この小さな部屋の中だけは、オレンジ色の光に満ちていた。
「先輩」
「ん?」
「私、ここが好きです。
埃っぽくて、薄暗くて、物が壊れていて……。
でも、息がしやすいです」
彼女は、欠けた皿の縁を指でなぞった。
「完璧じゃなくていい場所が、こんなに心地いいなんて……知りませんでした」
私たちは食後のコーヒーを飲みながら、レコードが一周して針が飛ぶ音を、ただぼんやりと聞いていた。
何もしない時間。
生産性のない会話。
積もっていく埃。
それら全てが、戦場へ戻る前の私たちに許された、ささやかで尊い「猶予」だった。
明日はどうなるか分からない。
けれど、今はただ、この傷だらけのテーブルを囲んでいられれば、それで十分だった。




