第四十一話
船が港に着いた時、王都は灰色の雨に包まれていた。
南の島にはなかった、冷たくて、埃っぽい匂いのする雨だ。
石畳を叩く音も、どこか硬質で神経質に響く。
「……暗いですね」
タラップを降りたアイリスが、傘を差しながら空を見上げた。
「以前は、これが『普通』だと思っていました。
空の色は鉛色で、空気は鉄の味がして……誰も空を見上げないのが、世界の正解だと」
彼女は、行き交う人々を見る。
皆、眉間に皺を寄せ、足早に過ぎ去っていく。
効率よく、無駄なく、そして不機嫌に。
「でも、今は……息が詰まりそうです」
アイリスは胸元をギュッと掴んだ。
派手なバカンスドレスの上に、薄手のカーディガンを羽織っているだけの彼女は、この街にはあまりに不釣り合いな「異物」に見えた。
「帰りましょうか。
まだ、あの城に戻る必要はないわ」
セシリア様が指差したのは、王宮の方角ではなく、下町の路地裏だった。
「私の『秘密基地』があるの。
殿下も知らない、埃まみれの隠れ家よ」
◇
私たちが拾ったのは、王家の紋章が入った豪華な馬車ではなく、辻馬車だった。
シートは革が剥げかけ、タバコと古い香水の匂いが染み付いている。
ガタゴトと車輪が軋む音。
窓の外を流れる、無機質なレンガ造りの建物たち。
アイリスは、窓ガラスに額を押し付けるようにして、じっと外を見ていた。
「……先輩」
「ん?」
「あの角のパン屋、まだありました。
あそこの時計台、三分遅れています。
……何も、変わっていません」
彼女の声は、どこか切なげだった。
「街はそのままなのに、私の中身だけが書き換わってしまったみたいで……。
なんだか、自分が『バグ』になった気分です」
今まで完璧に噛み合っていた歯車から、自分だけが外れてしまったような孤独感。
王都の景色は、変わってしまった彼女を、無言で拒絶しているように見えるのかもしれない。
「いいんじゃない?」
私は、彼女の冷たい手に自分の手を重ねた。
「街が変わらないなら、私たちが変えればいい。
それに、バグだらけの人生の方が、面白いって知っちゃったでしょ?」
「……ふふ。そうですね」
アイリスは、私の手を握り返した。
その体温だけが、この灰色の世界で唯一の、鮮やかな色彩だった。
◇
馬車が止まったのは、蔦に覆われた古びた洋館の前だった。
長い間使われていなかったのか、鉄柵は錆びつき、庭は雑草が伸び放題だ。
王宮の完璧な庭園とは正反対の、忘れ去られた場所。
「ただいま」
セシリア様が重い鍵を開け、扉を押し開ける。
埃の匂いが舞い上がった。
「げほっ……すごい埃」
「ふふ、掃除のしがいがあるでしょう?
ここなら、誰も来ない。
うるさい侍従長も、完璧主義の王子様もいないわ」
セシリア様は、家具にかかっていた白い布をバサリと取り払った。
「さあ、まずは窓を開けなさい。
王都の空気を入れ替えてやるのよ」
アイリスがおずおずと窓辺に歩み寄り、錆びついたクレセント錠を外す。
きしむ音と共に窓が開くと、湿った風が吹き込んできた。
遠くで、王宮の鐘が鳴るのが聞こえる。
午後六時。定時報告の時間だ。
かつてのアイリスなら、この音を聞いた瞬間に背筋をただし、業務報告に向かっていただろう。
けれど今、彼女は窓辺に肘をつき、頬杖をついて鐘の音を聞いている。
「……うるさい鐘ですね」
彼女はぽつりと呟いた。
「あんな音で急かされなくても、お腹は空くし、夜は来ます」
振り返った彼女の顔は、旅の疲れと、少しの安堵で緩んでいた。
「先輩、セシリア様。
掃除は明日にしましょう。
今日はもう……この埃っぽいソファで、雨音を聞きながら眠りたいです」
「賛成」
私たちは埃を払っただけのソファに、三人で身を寄せ合った。
王宮も、義務も、未来のことも、今はまだカーテンの向こう側。
雨音だけが優しく響く、灰色の隠れ家。
ここが、私たちの新しい「日常」のスタート地点だった。




