第三十八話
翌日。
アイリスは、鏡の前で自分の頬を両手でむにむにと引っ張っていた。
昨夜の号泣で腫れた目は、まだ少し赤い。
だが、その表情は真剣そのものだった。
「……うー」
彼女は鏡に向かって、口角を無理やり指で持ち上げている。
まるで、固まった粘土をこねているようだ。
「何してるの?」
私が後ろから声をかけると、アイリスはバッと振り返った。
その顔を見て、私は思わずのけぞった。
「ひっ」
怖い。
目が笑っていないのに、口元だけが三日月型に吊り上がっている。
それは笑顔というより、獲物を狙う深海魚の威嚇だった。
「……変、ですか?」
アイリスが指を離すと、顔が素に戻る。
少し落ち込んでいるようだ。以前のような無機質な分析ではなく、純粋に「うまくいかない」という苛立ちが見える。
「変というか……怖いよ。
なんでそんな顔してたの?」
「セシリア様が……『これからは思ったことを言いなさい』と言いました」
アイリスは鏡の中の自分を睨んだ。
「でも、言葉だけじゃ足りない気がして。
楽しい時は笑うのが普通だと……そう思って練習しているんですが、顔の動かし方が分かりません」
彼女はため息をついた。
「今まで、表情筋を使う必要がなかったので。
どこに力を入れれば『可愛い笑顔』になるのか……正解が見つからないんです」
なるほど。
「感情を殺す」癖は抜けても、「正解を求めてしまう」癖はまだ抜けていないらしい。
彼女にとって笑顔はまだ「自然に出るもの」ではなく「正しく作るもの」なのだ。
「あら、楽しそうなことしてるじゃない」
テラスから戻ってきたセシリア様が、アイリスの顔を覗き込んだ。
「どれ、私に見せてごらんなさい。
とびきりの笑顔を」
アイリスはゴクリと喉を鳴らし、気合を入れた。
「……はいっ!」
カッ!
アイリスが目を見開き、歯をむき出しにして口角を限界まで上げた。
――般若だ。
いや、殺し屋がトリガーを引く瞬間の顔だ。
「……うん、不合格」
セシリア様が即答した。
「アイリス、貴女ね。
笑顔は『威嚇』じゃないのよ」
「違いますか?
口角の角度は、雑誌で見たモデルと同じはずですが……」
アイリスは頬をさすりながら首をかしげる。
「形の問題じゃないわ。
貴女のは、『笑わなきゃ』って必死すぎて殺気が出てるのよ」
セシリア様は私の背中をパンと叩いた。
「一号ちゃん、見本を見せてあげて」
「えっ、私ですか?」
無茶振りだ。
でも、アイリスがじっとこちらを見ている。
私は仕方なく、昨夜の酔っ払ったアイリスの様子を思い出して、ふっと息を抜いた。
「……まあ、難しく考えなくていいんじゃない?
美味しいもの食べた時とか、面白かった時とか。
勝手に緩むもんだよ、顔なんて」
私は肩の力を抜いて、ニカっと笑ってみせた。
作り物ではない、いつもの適当な笑顔だ。
アイリスはそれを食い入るように見つめ、そして自分の頬に手を当てた。
「勝手に、緩む……」
その時だった。
私が手に持っていたアイスコーヒーのグラスが、結露で滑り落ちそうになった。
「おっとっと!」
私は慌ててお手玉のようにグラスを空中で弄び、なんとかキャッチしたが、その拍子に氷が一つ飛び出し、私のデコに直撃した。
「いたっ!」
氷は冷たい音を立てて床に転がり、私はおでこを押さえて悶絶した。
あまりにマヌケな光景だ。
「……ぷっ」
小さな音が聞こえた。
見ると、アイリスが口元に手を当てて、肩を震わせていた。
「……あは。
先輩、なんですか今の動き。
サーカスみたいでした」
彼女の目尻が下がり、口元が自然に綻んでいる。
計算も、努力も、緊張もない。
ただの、無防備な笑顔だった。
「あ」
セシリア様が嬉しそうに声を上げた。
「それよ」
「え?」
アイリスはきょとんとして、自分の顔をペタペタと触った。
「今、私……笑ってましたか?」
「ええ。とっても可愛かったわよ」
アイリスは急いで鏡を覗き込んだ。
そこにはもう笑顔は残っていなかったが、彼女の表情は先ほどまでの「般若」よりずっと柔らかくなっていた。
「……筋肉を意識しなくても、動くんですね」
彼女は不思議そうに呟き、それから私を見て、もう一度いたずらっぽく目を細めた。
「先輩のマヌケな顔のおかげです」
「一言多いよ!」
私がツッコミを入れると、彼女は「ふふっ」と声を漏らして逃げ出した。
もう、機械仕掛けの不気味な人形はいない。
そこにいるのは、生意気な口をきくようになった、ただの年頃の少女だった。




