第三十七話
二日酔いの地獄から生還した夜。
私たちは、静かな波音を聞きながら、ヴィラのダイニングで軽い夕食を囲んでいた。
アイリスの様子が、少し変だった。
昼間の失態を取り戻そうとしているのか、あるいは「人間らしさ」に触れた恐怖から逃げようとしているのか。
彼女は、以前にも増して機械的な動きで給仕をしていた。
「……現在、湿度六十五%。風向き、南南西。
空調の設定温度を一度下げました。快適な環境係数を維持するためです」
彼女は無表情でサラダを取り分ける。
その手つきは正確無比だが、どこか痛々しいほど張り詰めていた。
「栄養バランスを考慮し、タンパク質の摂取を推奨します。
マスター、および一号……」
「ねえ、アイリス」
私はフォークを置いて、彼女の言葉を遮った。
「その喋り方、やめない?」
アイリスの動きがピタリと止まった。
彼女は、ガラス玉のような瞳で私を見つめた。
「……喋り方、ですか?
これは王宮侍女としての標準プロトコルであり、最も効率的な情報伝達手段として……」
「違うわ」
横からセシリア様が口を開いた。
ワイングラスを揺らしながら、ため息交じりに言う。
「貴女は人間よ。
血が通っていて、昨日はお酒で失敗して、今は少しバツが悪そうにしている、ただの女の子」
セシリア様の言葉に、アイリスの眉がピクリと動いた。
「どうして、わざわざ『機械』のフリをするの?」
「フリ、など……。
私は、そのように造られました。
感情を排除し、事実のみを淡々と……」
「嘘ね」
私は立ち上がり、アイリスの目の前に立った。
彼女は一歩後ずさる。
「『道具』の言葉を使っていれば、傷つかなくて済むからでしょう?
『任務』と言えば失敗をごまかせるし、『仕様』と言えば自分の意思じゃないって言い訳できる」
私は、彼女の冷たい頬を両手で挟んだ。
逃がさないように、しっかりと目を合わせる。
「でも、昨日のアイリスは違ったよ。
笑って、甘えて、私にくっついてきた。
……あれが、本当の貴女なんでしょう?」
アイリスの瞳が揺れた。
さざ波のように、動揺が広がっていく。
「……怖い、のです」
彼女の唇から、小さな、震える声が漏れた。
侍女としての抑揚は消えていた。
「道具でなくなったら……私は、ただの無力な子供です。
何をしていいか分からない。
どう笑えば正解なのか分からない。
殿下に捨てられたことが……悔しくて、悲しくて、どうしようもない」
ポロリ、と。
彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
今度は「目にゴミが入った」なんて誤魔化しは効かない、熱い涙だった。
「道具だと思えば……この胸の痛みも、機能不全として処理できました。
でも……人間だとしたら、これは……ただの『惨めさ』です」
アイリスはその場に崩れ落ち、顔を覆って泣き出した。
そう。彼女はずっと、耐えていたのだ。
信じていた主に「不要」と断じられた絶望を。
それを認めたくないから、「自分には心がない」と言い聞かせていた。
心がなければ、傷つくこともないから。
「惨めでいいじゃない」
セシリア様が、椅子から降りてアイリスと同じ目線になった。
そして、泣きじゃくる彼女を優しく抱きしめた。
「捨てられて泣くのは、当たり前のことよ。
貴女は傷ついたの。
大好きな人に否定されて、心がボロボロになったのよ」
「うぅ……っ、うあぁぁ……!」
アイリスは、セシリア様の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
「悔しい……です……っ。
一生懸命、尽くしたのに……!
あんなに、頑張ったのに……!」
「ええ、ええ。
貴女は偉かったわ。
あんな見る目のない男、こっちから願い下げよ」
セシリア様は、赤子をあやすように背中をトントンと叩き続けた。
私はその光景を見ながら、少しだけ安堵していた。
剥がれた。
あの頑丈な「鉄仮面」が、ようやく割れた。
そこにいたのは、高性能なオートマタなんかじゃない。
失恋と挫折に打ちひしがれる、どこにでもいる普通の、そして等身大の少女だった。
「……もう、無理に難しい言葉を使わなくていいわ」
ひとしきり泣いて、目が真っ赤になったアイリスに、セシリア様がハンカチを渡した。
「『効率』とか『任務』とか、禁止よ。
これからは、思ったことをそのまま言いなさい。
『嫌だ』『痛い』『お腹すいた』……それで十分よ」
アイリスは鼻をすすりながら、小さく頷いた。
「……はい。
……お腹、空きました。
あと、さっきのサラダ……ドレッシングかけすぎました。酸っぱいです」
ぶっきらぼうな感想に、私とセシリア様は顔を見合わせて吹き出した。
「ふふ、正直でよろしい」
その夜、アイリスの口調から「ですます調」の硬さは抜けなかったけれど、冷たい響きは消えていた。
不器用で、真面目すぎて、ちょっと面倒くさい後輩。
それが、私たちの新しい家族の正体だった。




